立教大学環境論(15秋)

はげ山にするほど一生懸命米を作らなかったら、日本人はどんなものを食べていたのでしょうか。

近世では「石高制」が敷かれ、経済の単位を米に置く、世界でも極めて得意な制度が機能していた。水田だけではなく、畑地や屋敷地を含むすべて「耕地」の生産高はすべて米の生産力に換算され、米で徴収されたわけです。よって、鍬や雑穀を作っていた畑にも米…

トブサタテという林業の風習に関心を持ちました。これで本当に木は再生するのでしょうか。また、この名称の語源は何でしょうか。

トブサタテは「鳥総立て」と書き、トブサとは、木々の梢が鳥の止まる場所になっていることを指します。フサ=「総」は、枝葉の茂っている様子で、昔立っていた巨樹が倒れたことに因んだ、上総/下総の地名表記と同じです。トブサタテには、実質的な再生機能…

草山、柴山の用途は、焼畑とは関係ないのでしょうか。

近世段階では、確かに列島の山地各所で焼畑も行われていましたが、水田稲作が拡大し、柴草山が環境の多くを覆い始めると、その焼畑でさえ水田に変えてゆく事態になります。よって17世紀以降の柴草山の用途は、主に刈敷の草を取るためのもので、焼畑の前段階…

英語の文献で、日本人の自然観について書かれたものを読んだことがあります。そのなかで日本人は、「人間は自然の一部」という考え方を持っており、長らく自然と共生してきたが、江戸時代頃には、「人間は自然の一部でありながら、自然を豊かにする力を持っている存在である」との考え方が、学者らの間でみられるようになったとありました。このような、自然に手を加え、自然を豊かにしようという考え方は、日本特有なのでしょうか。(熊沢蕃山に「怪物」という思想があったようですが…)

江戸時代の自然観は、多く儒教思想の読み直しのなかから生じてきます。天人合一の思想のなかで、人間の究極的には自然の一部であって、相関関係のなかに置かれている。その関わりにおいて、お互いに自己を実現してゆくことが可能であると捉えるわけです。ま…

自然環境に対する影響の点でいえば、共生どころか害悪となる人間の活動ですが、異文化コミュニケーション分野の人間としては、相互の生命の保全の道を考えることが必要なのかなと感じました。建設機械メーカーへ就職するので、興味深い問題です。

そうですね。しかし、人間が他の生命の保全の方法を考えてしまうということ自体、すでにコントロールであり支配なのだという自覚が必要です。すなわち、私たちの踏み込んでいる領域は、もう「帝国」からは逃れられず、自分もその一員なのだということ。利益…

ドイツと日本の選民思想を比較すると、日本ではそうした志向を未だに持っている人が多いように思います。「自然(田んぼ)を愛する」ことはもちろん、「四季を味わえる」「旨味が分かる」など、日本人は特別だと思いがちではないでしょうか。他の国家も、多かれ少なかれそういうものなのですか。

社会や文化のあり方、辿ってきた歴史のあり方によって多少の相違はありますが、概ね地球上のあらゆる民族はエスノセントリズム(自民族中心主義)を持っています。それは、自分たちを中心にして世界を把握しようとするからで、自/他のカテゴライズの成立と…

ドメスティケーションでは、オオカミ→イヌの生物的移行も関係がありますか?

「生物種」のカテゴライズ自体が曖昧な点もありますので、オオカミ/イヌの区別は、DNAレベルでどこまで成り立つのか未だ議論もあります。すなわち、かつてあったジャッカルやコヨーテを却け、オオカミがイヌの祖先として確定されて以降は、イヌもオオカミの…

東北に米所が多いのは、何かパワーバランスの問題が多いのでしょうか。

今回の講義でも話をしましたが、近世〜近代にかけて、寒冷期の東北が稲作の実験場のようになっていったことと関係があるのだと思います。近世には、新田が開発されてゆく一方で、稲作依存の弊害から飢饉も繰り返し生じ、一方で農作物や食の多様化が目指され…

景観論の流れとは異なるが、自給自足の問題として、稲作・水田はどうすべきなのか気になった。

前にもお話ししたかもしれませんが、一作物に特化したような農耕文化、食文化は、あらゆる点で脆弱ですし、生物多様性の観点とも大きく食い違います。主食を規定せず、地域地域の環境に即した多様な生業、それに根ざした食文化を構築してゆくのがベストと思…

アニミズム信仰の対象としては、農作物や農地は強くは認められなかったのでしょうか。

前回お話ししたハニ族の神話のように、アニミズムのなかには、農耕に特化した信仰の形、神話や祭祀も存在したと考えられます。あとあとお話ししてゆきますが、日本にもそうした形式は存在していました。そもそも神社の歴史的原型に当たるような祭祀遺跡は、…

私の地元である千葉県鴨川市にも棚田(大山千枚田)がありますが、日本の棚田はどれも中国のものとは逆ベクトルなのでしょうか。

必ずしも、すべてが逆ベクトルではありません。大山千枚田も、水源は山上にあって、流れのままにそれを使用しているはずです。ただし、雲南の棚田と比較して明確に異なるのが、雲南の方は生活拠点が山上にあり、棚田はその下部へ位置づけられているのに対し…

〈殺された女神〉の神話ですが、日本神話の、スサノオが豊穣神を殺害する話を思い出しました。ハイヌヴェレ神話から採り入れられたのでしょうか?

『古事記』のオホゲツヒメ/スサノヲの神話、『日本書紀』のウケモチ/ツクヨミの話は、ご指摘の通り〈殺された女神〉の神話です。ハイヌヴェレ神話から採り入れられたというより、列島のなかで機能していた、栽培植物起源神話、ひいては穀物起源神話の一バ…

前回の話になってしまいますが、「無痛文明」について、来日した中国人が日本は「干浄」だから好きというのは、公共マナーのよさだけではなく、無痛文明の快適さもあるのでしょうね。

そうでしょうね。中国のハイ・ソサエティーの人々が日本の無痛文明を志向するというのは、予想される事態ではあるでしょうが、恐ろしいことです。広大で環境も異なる中国が日本のようになることはありえず、社会や文化の格差、それに規定された認識・心性に…

六斎日の話を聞いて、何となく道教の腹の虫が泰山府君だか天帝だかに告げ口をするといけないので、寝ずの番をするという話を思い出しました。

三尸説ですね。授業でお話しした六斎日は、まさにこの三尸説と密接に絡みあいながら、中国の六朝時代に整備されてくるのです。いわば、道教と仏教との交渉の結果、仏教の東アジア化した姿ともいえます。日本ではこれが、庚申信仰という民俗となって、近代ま…

仏教では不殺生戒としてあらゆる生命の殺生を禁じているとのことだったが、捨身行によって自らを殺すことはこれに反しないのだろうか。

生命の循環という発想が基本にありますので、キリスト教などの自殺とは少し意味が違ってきます。菩薩行としての捨身は、生きとし生ける者のために行う救済の行動ですので、自殺とはみなされません。例えば講義でも紹介した、飢えた虎に自分の身体を与えると…

今日は仏教の話を伺いましたが、『法華経』のほか、宗派によってどんな思想の相違があるのでしょうか。また、日本へ入ってきたときに、植物が有情になるのはどうしてですか。

仏教は、今日お話ししたところを根源的な枠組みとして、宗派ごとにかなり細かな相違があります。最も異質なのは浄土教系統、かもしれません。日本でいちばん大きな教団は、この系統の浄土真宗ですが、衆生はすべて阿弥陀如来によって救済されており、現生の…

環境倫理の考えの主体は、主に大人であると思います。子供は大人の考え方に一方的に巻き込まれるだけだと思うのですが、例えば仏教の戒律などの遵守について、子供がそれを受けることはどう考えられているのでしょうか。

仏教では、子供/大人の区別を大きくは行いません。よって、子供も大人と同じように扱われます。現在、一般社会に至るまで不殺生戒を遵守しようとしているのは、一時期「国民総幸福量」で話題になったブータンですが、極めて道徳的・倫理的な子供が育ってい…

生存戦略としての移住があって、定住を基本とする現代の価値観が「進歩的」ではないことは分かりましたが、社会的存在である人間において、社会関係の構築には定住が重要であり、それが歴史・系譜を築いている面もあるかと思います。

知的で重要な指摘です。まず注意しなければならないのは、移動は必ずしも社会構築を放棄するものではない、ということです。遊牧民族にもずっと強固な社会性が存在したことは、ユダヤ民族やモンゴル帝国の成り立ちをみても明らかです。また、現在我々がみて…

肉食忌避、菜食主義、仏教の教えなどについて。

上記、多くの感想や質問をいただきました。次回丁寧にお話しすることにしますが、もしかしたら誤解をしているひとがいるかもしれないと思うのは、菜食主義がよい、肉食をするのはよくない、ということでは決してないということです。何を食べるか、何を食べ…

レルフの没場所の考え方が、場所の呪縛という意味で肯定的に用いられていましたが、その点以外でも肯定的な概念といえるのでしょうか。

授業でもお話ししたと思うのですが、没場所について、レルフは基本的に否定的な立場を取っています。主体が空間を場所として分節できる、さまざまな繋がりを喪失させてしまうからです。束縛からの解放というのは、あくまで「そうした意味もあるので、一概に…

トポフィリアには、定義的に人間以外も含まれそうな気がしますが、どうなのでしょうか。

質問の意図を充分汲めているかどうか分からないのですが、まず「場所愛」ということですので、その愛情は基本的に空間に向けられています。その空間は、自分が環境として分節・構築したものですので、その場所にゆかりのある人物はもちろん、動物や植物、空…

トゥアンのトポフィリアは「場所への愛」ということでしたが、それもまた人を縛るもののひとつということでしょうか。 

これは、仏教の考え方を媒介するとよく理解できるかもしれません。仏教では、愛情も煩悩であると捉えます。すなわち、主体が何らかの対象に執着し、それに囚われて自由を失うからです。場所への愛着もしかりです。例えば、あなたにとって居心地のいい場所、…

エイリアンの表象で、人間に近い形状になったのは、交渉が可能になったからだと考えてよいのでしょうか。それとも、人が一番恐ろしいということですか。

面白いですねえ。ウェルズの『宇宙戦争』の時代には、人間にとっての極北の存在、コミュニケーション不可能なものとして軟体動物の表象が用いられているのだと思われますが、ギーガーのエイリアンの場合は少々複雑ですね。彼はシュールレアリズムの芸術家で…

神仏習合に関する本で、人格を持つ神は仏教の流入以降に語られたといった文章をみかけましたが、もしそうであれば、人格神出現以前の倭人の自然の理解が気になります。

仏教を高尚な宗教、神祇信仰を未開な宗教とみて、その接触から後者の変質・発展を語ろうとする視点ですね。ときどきみかけるものですが、誤りです。なぜならば、いわゆる仏教が伝来する以前の古墳時代には、すでに中国的な神仙思想が政治的交通のなかで導入…

自然のもの(草木動物など)を神として崇めるのは非西洋的だと感じたが、西洋でもこのような習慣はあるのだろうか。

古代にはもちろんありましたし、現在でもキリスト教と融合しながら、アニミズム的なものはしっかり残っています。例えば、南フランスのルルドをはじめとして、近代のヨーロッパでは、各地で聖母が出現しその場所が聖地化されるという事件が起きています。そ…