2008-05-01から1ヶ月間の記事一覧

墨家というのは儒家と道家の中間的な立場であって、儒家とは対立していないのではないでしょうか。

実際に、墨家は儒家を様々な局面で批判しています。例えば葬儀のありようについて。儒家は、礼的秩序を維持するために、王侯や士大夫ら統治階層の葬儀を盛大に行い、大量の副葬品を地中に埋納することを勧めます。しかし、墨家の考え方では人類の生産できる…

縄文時代の環状集落では、中心の墓地への埋葬はどのように行われたのですか。 / 貝塚とは違うのでしょうか? / 環状集落の中心では、何か祭祀的なことが行われていたのでしょうか?

中心核に当たる部分に、集合前の小規模集落の保持していた遺骨が集積(再葬)され、そこから放射状に新しい遺体が埋葬されてゆきます。各住居はそれを取り巻くように配置されるわけで、ちょうど遺骨がかすがいとなって住居同士を結び付ける構図になっている…

プリントの「ギリシア・キラダ湾の花粉ダイアグラム」とプラトンの部分、授業で扱っていないのではないでしょうか?

…! そうでしたか。くだらない話をしていて飛ばしてしまいましたか。来週ちょっと付け加えますが、大まかな流れはイースター島やメソポタミアと同じなので、みてもらえば分かるでしょう。ただこちらの方は、付近のミュケーネ文明が金属精錬に伴う大規模伐採…

石室は地震等の災害には強いのでしょうか。

古墳については、地震や大規模降雨の影響によって盛り土が地滑りを起こし、一部崩落する事例が多く残っています。現在一定の形状を保っているものでも、地層を分析してみると滑落や亀裂の痕跡を発見することができます。石室は地中にありますから地表面より…

古墳に女性が埋葬されることはよくあったことなのですか。

女性の埋葬には、講義で扱ったような渡来系文化との関係とともに、階層差の問題が関わってきます。古墳時代には、時代を降るに従って父系的な家族構成が一般化してゆきますが、それはまず社会階層の上層部において進行します。つまり、前方後円墳に代表され…

追葬とは何年後まで可能だったのでしょうか。現在の墓制と同じく期限はなかったのですか。

追葬が可能といっても、ひとつの横穴式石室に埋葬できるのはせいぜい2〜3名です(まれに、20名以上という事例もありますが)。それぞれが夫婦や兄弟、親子などの親族ですから、ひとつの古墳で追葬が行われるのはせいぜい数十年といったところでしょう。た…

黄泉国のものを食べると戻れなくなる、という発想の根源は何なのでしょうか。

確かではありませんが、ある社会なり共同体なりに新しい成員が加わるとき、そこで作られた料理を食べさせることで帰属の証とする通過儀礼が存在したようです。平安時代には「三日夜の餅」という儀礼があり、露顕(ところあらわし)という、現在の結婚披露宴…

黄泉国神話が日本最古の「呪的逃走」を示しているとすれば、その後に作られた昔話などは、この神話の影響を受けていると考えられるのでしょうか。

この神話だけに限定はできませんが、当然影響は与えたと思いますね。『古事記』は室町以降には広く読まれるようになってゆきますし、本文には同神話を載せない『書紀』も、一書第六として紹介しています。中世には『書紀』の神話を様々に注釈して再解釈し、…

イザナミはイザナギを追いかけてゆきますが、彼を襲ってどうするつもりだったのでしょう。この対立は、やはり生者/死者の存在の遠さから来ているのでしょうか。

黄泉の世界へ引き入れるためだった、と解するのが妥当でしょうか。イザナミもイザナギも、コトドを渡すときでさえ相手を「愛しき我が那勢命」「愛しき我が那迩妹の命」と呼び合います。イザナミも夫と一緒に暮らしたかったのでしょう。彼女が「吾に辱見せつ…

イザナミに死者への恐怖がみえるように、死者に対する態度は時とともに負の方向へ傾いていったのでしょうか。

縄文から現代まで一貫して死者が遠ざけられていったかというと、必ずしもそうではないと思います。もっと短いスパンのなかで、死者が親しい存在として扱われたり忌避され遠ざけられたりする。古墳時代においても、竪穴式石室に死者を「封じ込めていた」前期…

黄泉国神話の腐乱したイザナミの様子は、後世の死穢の最初の例なのでしょうか。

ケガレは確かにケガレなのですが、やがて、伝染の仕方や消滅期間等々が制度化される平安以降のそれと比べると、非常にプリミティヴで神話的な色彩を帯びています。これは最近、知り合いの日本文学者から教わったことなのですが、黄泉から帰って禊をしたイザ…

メソポタミアの塩害の話がよく分かりませんでした。なぜ地下水に塩分が多量に含まれるのでしょう。また、塩害は今は防げているのでしょうか。

地下水には多かれ少なかれ塩分が含まれるもので、灌漑による塩分の蓄積は、乾燥地帯ならばどこでも警戒しなければならない問題です。エジプトでもその危険は常にあったわけですが、灌漑時の地下水位の低さと洪水による土壌洗浄が、地表への塩分の蓄積を防い…

ガープ・バレイの花粉分析のグラフでオリーブの花粉量に変動があるのは、何らかの戦争が断片的に続いていたためでしょうか。

確かに都市間の抗争などでオリーブ栽培に影響が生じる場合もあったでしょうが、その上下変動は、他の植生との比較においても突出しているわけではありません。オリーブ栽培自体の技術が充分発展しておらず、収穫が不安定であったともいえるかも知れません。

本当にヨーロッパに大河はなかったんでしょうか。

もちろん、ライン川やドナウ川といった河川があり、流域には鉄器文化も存在したようです。聖なるオークなどの樹木崇拝を核とするドルイド教に基づき、広大で深い森林に定着したガリアやゲルマニアの文化は、しかしローマの度重なる遠征を受けて次第に疲弊し…

ギルガメシュの話題に出てきた、「神の一覧表」って何ですか。

祭祀を執行するためにまとめたと考えられる、神々の帳簿です。古代文明は多くの神々に対し毎日のように祭祀を行っていますので、こうした祭祀執行表ともいうべき史料は珍しくありません。

ギルガメシュ叙事詩を粘土板に書いた人ってどんな人だろう。

あまり詳しくはないのですが、やはり史官=神官であろうと考えられます。古代においては、洋の東西を問わず、歴史(往々にして神話とイコールでもある)を掌る存在は祭祀や卜占を担う存在でもあるのです。例えば、東アジアの歴史叙述は中国古代の殷王朝にお…

ギルガメシュ神話の史料を読むと、エンキドゥとギルガメシュの関係が気になります。野人の方が立場が上に感じられるのですが? / ギルガメシュが、森の王を殺しにゆくときに野人エンキドゥを同行するのは、どういう意味があるのでしょう。文明が自然を味方に付けて、より大きな自然と敵対するみたいな感じなのでしょうか。

エンキドゥは命令しているというより、ギルガメシュを励ましているのですね。物語的には、ギルガメシュはエンキドゥを心の支えにしている部分があるようで、彼が神々の怒りを得て死んでしまうと、ギルガメシュは不死への志向を強固にしてゆきます。同等の力…

ギルガメシュの神殺しを聞いていて、『もののけ姫』を思い出しました。西洋人と日本人によっての神殺しの概念は、相互に異なるのでしょうか?

次回には日本の事例も紹介しますが、実は、物語の枠組みとしては大きな相違がないのです。極めてよく似た話が、洋の東西に残っていることもあります。例えば、ヤマタノヲロチ退治だって神殺しですから、日本神話の描写もそれなりに残酷です。ヲロチは酒に酔…

神話と史実は関係があるのですか?

神話も歴史的な存在である以上、過去の時代・社会情況とまったく切断していることはありません。古代の人々が世界や宇宙をどのように認識していたか、また社会をどのような規範や秩序で成り立たせようとしていたか、何を畏怖し何を大事に思っていたか、そう…

現在、子宮型の墓は沖縄に少数残るのみだと思いますが、なくなったのは仏教の影響でしょうか。また、日本の墓が現在のような形になったのはいつ頃ですか。

確かに、仏教的な他界観が〈死と再生〉の思想に与えた影響は大きいでしょうね。後に触れますが、性的な再生の概念は、輪廻や浄土往生のなかへ解消されてゆくと考えられます。女性のありようを罪業視したこともひとつの原因でしょう。しかし、日本の祖先祭祀…

追葬という発想はどのように生まれたのでしょう。また、どんな関係の人が追葬されたのですか?

基本的に、古墳は政治的首長が埋葬される墓なのですが、横穴式石室の導入により、その親族へ範囲を拡大して追葬が始まります。1)兄弟関係、2)父子関係、3)2)に家長の妻が含まれるものの3パターンが基本です。これは1)から3)へ、すなわち親族構造の父…

死者の国=玄室なら、「羨道」にはその国への憧れという意味もあるのだろうか。

どうなんでしょう。字義からすれば、恐らくは「墓室から溢れ出たような狭い余りの道」という程度だと思いますが。

横穴式石室は、完成までどれくらいの期間を要するのでしょう。

規模によって時間の長短はあるでしょうが、仮に多数の労働力が必要な作業を農閑期に限定した場合、数年に及ぶ歳月を費やしたと考えられます。構築過程の基本は、a)築造の諸準備(築造計画の立案・設計、選地、石材の選定、労働力の確保)→b)石室の基礎地形…

古代の人々は、女性の体内に子宮という器官があることをなぜ知っていたのでしょう。

同時代の中国医学では、すでに解剖学的知識はあったはずです。日本列島でも知られていた可能性はあります。しかし、子供を産む女性の腹部自体を袋、子宮と捉えていたと考えた方が自然かも知れません。

前方後円墳の形は、なぜ前方部分が特徴的に台形になっているのでしょう。

憶測ですが、祭祀を行うために巨大になっていったのと、やはりベクトルが円の中心へ収斂されていっているからだと思います。前方部分はやはり付属施設であり、すべては死者の埋葬施設に連なるものだという形状でしょう。

縄文後期の弧状配石では、柄鏡の円の部分ではなく弧に墓があったのに対し、前方後円墳では後円面白いところに気がつきましたね。部分に埋葬施設があるのは、何か思想の変化があったのでしょうか。

円の中心にはパワーの源が設定されていると考えられます。環状集落の墓地しかり、前方後円墳の円墳しかりです。弧状列席の場合は、柄鏡の部分に死者を祭祀するシャーマンが住んでいる。そういう意味では、祖先の力より、それをコントロールする宗教者の能力…

方形周溝墓や円墳の形状は、死と再生の円環と関連するのでしょうか。

円墳や帆立貝型墳には、縄文以来の円環形状へのこだわりをみてしまいますね。当然、縄文―弥生―古墳の文化が一繋がりに結合しているわけではないのですが、底流としてそうした発想は受け継がれているのでしょう。ただし、方形周溝墓に円環の思想を反映させて…

環状列石には、どのような石が使われたのでしょう。価値のあるものが使われたのではないでしょうか。

共通の特徴としてみえるのは、「川原石」であるということです。つまり、川の流れのなかで角が削られ、丸みを帯びた石です。やはり「丸」という形状に価値が認められたのかも知れませんが、「水」が重要な意味を持っていたようにも考えられます。前近代にお…

再生を促された死者には、もうエネルギーは残されていないと観念されたのだろうか。

これは憶測ですが、死という現象、死者という具体には、プラスのエネルギーの枯渇状態とマイナスのエネルギーの発露状態の二側面が観測されていたのではないでしょうか。ただこの二つはまったくの別ものではなく、相互に転換することが可能である。死/再生…

集落の中心に墓域を置いて、死者に対する恐れはなかったのだろうか。

まったくなかったわけではないと思います。しかし、共同体の祖先という発想が死者をより身近なものとし、円環という構造がマイナスのエネルギーをプラスに変える機能を担っていたのではないでしょうか。環状集落やストーンサークルが生まれ、そして廃れてゆ…