2010-07-01から1ヶ月間の記事一覧

レポートの評価基準について書いておきます。参考にしてください(基本的に「日本史概説I」も同じです。重複しますが、別カテゴリーで掲げておきます)。

ポイントは4点あります。まず1点目は、講義の内容が踏まえられているか。別に私の話に賛成しろといっているわけではなく、批判であってももちろん構わないわけですが、ちゃんと講義を聞いて理解していることを示してほしいわけです。例えば、まず「はじめ…

レポートの評価基準について書いておきます。参考にしてください(基本的に「日本史特講」も同じです。重複しますが、別カテゴリーで掲げておきます)。

ポイントは4点あります。まず1点目は、講義の内容が踏まえられているか。別に私の話に賛成しろといっているわけではなく、批判であってももちろん構わないわけですが、ちゃんと講義を聞いて理解していることを示してほしいわけです。例えば、まず「はじめ…

夏休みに仏教について勉強したいと思うのですが、入門書でお薦めのものはありますか?

ひとりの著作だと偏りがありますので、下記のシリーズを読んでみてください。研究入門の巻などもありますし、日本仏教の多彩なありようを分かりやすく理解できます。日本仏教研究会編『日本の仏教』第1期1〜6・第2期1〜3、法藏館

古代人の神、自然との関わり方について興味を持ち、レポートを書きたいと思っています。参考文献が少ないと思うのですが、お薦めのものは何かありますか?

遅くなってすみません。残念ながら、一般向けの分かりやすい本というのはあまりないのです。専門的な論文集になりますが、ヒントになりそうなものを少々挙げておきます。斎藤正二『日本的自然観の研究』1〜4、八幡書房、2001〜2006年増尾伸一郎・工藤健一…

日本は遣唐使などで中国文化を必死に取り込もうとしていましたが、科挙に対してはどうだったのでしょうか。

日本も平安期に科挙を導入していますが、その効力を充分に発揮できないままに廃止されました。理由のひとつは、日本の律令国家が畿内政権の様相を呈していたためです。すなわち、大化前後よりの伝統的畿内豪族が、律令制というシステムを用いて、諸国を支配…

観音信仰とは具体的にどのようなものですか。

観音菩薩に対する信仰で、所依経典は『法華経』、もしくはその一篇 観世音菩薩普門品を独立させた『観音経』です。観音菩薩は、修行の階梯を経てすでに如来となる実力を備えているにもかかわらず、生身の肉体を持っていた方が衆生を救済するには便利であると…

当時の朝廷が仏教を重視していたのは分かりましたが、神道に対してはどうだったのでしょう。 / 仏教国家建設のなかで、神道側の反応はどんなものだったのでしょう。

当時はまだ、「神道」なるものは存在していません。共同体祭祀を国家が天皇・神祇官のもとに体系化した天神地祇、それを運営する神官の制度があったに過ぎません。当時の主要神社は、宇佐八幡宮が行った「天下の諸神を率いて大仏造営を助ける」という護法善…

「平城京が世界の中心である」という思想は、対外的にも発揮されたのでしょうか。

そうですね、とくに東大寺大仏の存在は重要でした。天平勝宝4年(752)6月丁酉には、来日した新羅使の金泰廉らが、一切経の納められた東大寺で大仏を礼拝しています。大仏の建設時には宇佐八幡が託宣を下し、諸神を率いて協力すると申し出た神仏習合の事例…

東国行幸が壬申の乱を追体験するためだとすれば、行幸に参加した人々のどれだけがそれを理解していたのでしょう。

これも難しいですね。ただし、壬申の乱は奈良王朝建国の神話ですし、『日本書紀』は多くの官人たちが学んでいたはずです。未だ『万葉集』は編まれていませんが、壬申の乱を歌った万葉歌も存在しました。貴族層はもちろん、付き従った官人たちのなかにも、そ…

史料50で、「朕は意ふところ……驚き怪しむべからず」といっていますが、もし積極策ならばはっきり云わない理由は何ですか。

いい質問ですね。確かに、『続日本紀』のどこを探しても、聖武天皇が天武天皇の後を辿ったとは書いていません。しかし、行程をみると間違いなくそれは事実で、広嗣の乱という戦争の最中であったことをみても蓋然性は高いと思います。となると、『続日本紀』…

『石山寺縁起絵巻』にある宝鐸の出現は、「よくある話」だったのでしょうか。 / 宝鐸を埋めるのはどうしてでしょう。土地を清めるためですか、何かしきたりがあるのでしょうか。

特定の地域では、「よくある」とまではいいませんが、「聞く話」ではあったのでしょう。良弁との関わりでいえば、ちょっと興味深い事実があります。天武朝に飛騨国へ漢方薬の白朮採取に派遣された益田直金鍾という人物がいるのですが、彼の本貫である飛騨国…

子供を攫うのが「鷲」であることに、何か特別な意味はあったのでしょうか。

鷲は、世界中で一般的にみられた最大の猛禽のひとつですので、人間の子供をさらってゆくには、大きさ・強さとも最も自然であるとみられたのでしょう。実際にそうした事件があったのかも知れません。しかしその根底には、例えばアジアの穂落し神やヨーロッパ…

良弁の出自が諸説あるなかで、どうして相模国説に特定できたのでしょう。

詳しくは、拙稿「良弁の出自と近江国における活動」上(『芸林』46-2、1997年)を参照していただきたいのですが、良弁の出自には、大別してa)相模国・漆部氏説、b)相模国・百済氏説、c)近江国・百済氏説の3種があります。それぞれ典拠となる文献を精査し…

玄昉、良弁、道鏡は医療行為を通じて政治権力と結びついたようですが、それだけで政界で一級の力を手に入れられるのでしょうか。

確かに大きなきっかけには違いありませんが、彼らの力はそれのみに限定されるものではなかったでしょう。玄昉は真備と並んで当時最新・一級の知識を持った人物でしたから、諸兄のブレーンとしては適任であったと思われますし、良弁も無名の僧侶から出身して…

予備校時代、玄昉は宮子を誑かして性的関係に持ち込み、宮子を通して権力を振るったと習ったのですが、本当でしょうか。

うーん、いちばん人口に膾炙しやすい俗説の類ですね。例えば道鏡と称徳天皇が肉体関係にあったとする話も、早く奈良末期〜平安初期には出てきますから、どの時代、どの世界においてもこの手のゴシップネタはうけるんでしょうねえ。しかし、史料的根拠はまっ…

憑童が何なのかよく分かりませんでした。 / 夏の怪奇番組などで、霊能者が芸能人に憑依した霊と会話したりするのをみることがあります。駆り移しをしなくても霊の声を聞いたりできるのでしょうか?

憑童は童子、憑坐は童子もしくは女性で、ともに霊を乗り移らせる容れ物です。しかし、これは単なる受動的な容器ではなく創造的な容器であり、霊は憑坐につくことで初めて我々に理解できる言葉を発するのです。ただし、それは文脈や論理がうまく通っていない…

孝謙天皇が道鏡に入れ込んでしまったのは光明子らの影響があったのではないでしょうか。また、当時の医師の地位は僧侶と比較するとどの程度だったのか、気になります。

「入れ込んだ」のが客観的にどういうことなのかは考える必要がありますが、確かに、宮廷における内道場の位置、後宮女性たちと看病禅師との関係に、一定のラインが引かれていたとはいえるかも知れません。身分の上下については、例えば宮廷内における役割を…

オシラサマという名称は馬と関係なく付けられたのでしょうか。 / オシラサマの神話において、主人公が馬であることは何か意味があるのでしょうか。蚕と馬とは結びつかないのですが。

オシラサマという呼称蚕の影響でしょうが、その存在自体は、遠野で養蚕が始まる江戸中期以前に遡るようです。近年では赤坂憲雄氏らによって、アイヌのイナウや、さらに北方の民族宗教と結びつくアジア的広がりが指摘されています。また、馬と桑・蚕との繋が…

狐との婚姻譚に関して、後の時代には人に化けられるのが狸、狐、猫に限られてくるのはなぜでしょうか。これらの動物が特別視されるファクターとしては何があるでしょうか。

いわゆる魔物と位置づけられる動物ですね。その背景には、彼らが里と山とを行き来する(猫の場合は、里にいながら突然姿を消す)境界的存在であるとの認識が隠れています。人間生活において身近な存在でありながら、一方で理解しがたい未知の面も持っている…

『霊異記』上2に、犬の生まれた日が明記されているのはなぜですか。

子供の誕生日を記さないのに犬の誕生日を記すのは笑いをとるためだ、という説もありますが、一歩踏み込んで考えたいものです。12月には、追儺や大祓など魔や穢れを祓う儀式が行われるうえに、15日は四天王(もしくはその太子や使者)が天下を巡行する六斎日…

『霊異記』上2の「能き縁を求めむとして行く女なり」とは、占いの一種を意味しているのですよね?

『霊異記』上10に、路上でたまたまゆきあった僧を勧請して供養をしてもらうという、やはり同じような占いの一種がみえます。路上という公の場は神仏の力が働く空間でもあるので、それに託して吉を得ようとする方法ですね。『万葉集』にみえる橋占や、辻占な…

ブリコラージュ的営為とは、鎌倉以降の中国文化の消化と再構築を指しているのですよね?

鋭いですね。そのとおりです。例えば鎌倉仏教の成立などでは、この問題が非常に大きく作用しています。例えば親鸞は、『大宝積経』巻第17/無量寿如来会第5-1の、「心或不堪常行施、広済貧窮免諸苦、利益世間使安楽、不成救世之法王」というくだりについて、…

行基集団のような活動を行っていた民間レベルの仏教者は、渡来系氏族が多かったと聞いています。これは外国から移住してきた人たちですか。

百済系、新羅系の渡来人たちが多く関わっていました。ただし、彼らが日本へ渡来してきたのは5世紀後半〜6世紀初にかけてで、8世紀の行基の頃には列島へ土着して数世代を経た人々だったことになります。彼らの知識や技術は、飛鳥時代以前には大変もてはや…

土塔はどのような経緯で日本に伝来したのでしょう。エジプトは関係あったのですか。

エジプトは関係ありません。インドや東南アジアのストゥーパは土まんじゅう型ですので、それがモデルになったのではないかと考えられています。ただし、そこに瓦を葺くというのは斬新な発想です。ちなみに土塔の建った大野寺は土師氏の氏寺として建てられた…

どうして国家は僧侶からは税金をとらなかったのですか。

僧侶は生産活動に従事しませんので、基本的に国家に支払えるものを持っていません。そのかわり、宗教的実践を通じて鎮護国家に貢献することを求められたのです。

『続紀』養老元年4月壬辰条に、「三綱連署し期日に赴かしめよ」とありますが、これは僧侶が行基や私度僧を取り締まっていたということですか。 / 「四民」を士農工商と訳されていますが、当時は「士」に当たる階級はないのではありませんか。 / 「指を切り取る」「皮を剥ぐ」といった行為は、単なる誹謗中傷なのでしょうか。

養老元年4月壬申詔の基本的なスタンスは、僧尼令という僧侶関係の法律を遵守させることにありました。乞食行に関する三綱への報告も同様で、各寺院の管理・統率者である三綱、仏教界全体の教導者である僧綱は、僧尼令に基づいて僧尼たちを教導する義務があ…

行基集団には、国家の弾圧に対して一揆を起こすくらいの力はあったのではないでしょうか。この頃、僧侶主導の一揆などはなかったのですか。

行基と類似の活動を展開した民間仏教者はありましたが、それらが反乱のような事件を起こすことはありませんでした。仏教では戦闘を忌避するのが基本的な考え方ですので、一向一揆などの方がやや特殊な発現の仕方であると思います。

国家に弾圧されながら民衆救済を行って、行基の側には何かメリットがあったのでしょうか。

そこは宗教的実践ですので、行基の信仰においては充分意味があったということでしょう。彼の思想的根拠についてはさまざまな議論がありますが、他者の救済のために尽くすという姿勢は大乗仏教の究極的理想ですし、そうした善行が自らの覚り、救済に結びつく…

行基が大仏造営に協力したのは国家による偽りかも知れないとのことですが、そのようなことをして国家の側には何かメリットがあったのでしょうか。 / 『続日本紀』という書物の信憑性に疑問を持ちました。史料としてどの程度信用できるのでしょうか。

当時、正史は国家が管理していましたので、後代に正統性をもって受け継がれてゆく史料は、圧倒的に国家の関連のものが多かったわけです。そこに「行基が大仏造営に協力した」と書かれていれば、その真実性は極めて強く受け継がれてゆきます。すなわち、民衆…

三森山のお堂に四天王の名前を書いた幡が立っていましたが、生と死の狭間に四天王を祀るというのはどういう意味があるのでしょう。

とくに、四天王であるということと、死者の世界の入り口であるということに、繋がりを見出しているわけではないのだろうと思います。それぞれのお堂に安置されている如来を守護する存在として、四天王の幡を立てて飾っているに過ぎないと思われます。しかし…