2012-06-01から1ヶ月間の記事一覧

『文心雕龍』の史論には「歴史に勧善懲悪を示」「その時代の聖人を規準にして歴史を記述する」とありましたが、後の時代においてその聖人の評価が変わる可能性についてはどう考えていたのでしょう。

「聖人に従う」というのは、個々の時代の誰それというより、古代の聖王たちと周公旦・孔子の言動、それを伝えた記録という意味でしょうね。そして、聖人なるものの評価は絶対であり、時代には左右されないのです。なぜなら、普遍不変の真理を語るのが聖人だ…

中国人の歴史観を表す言葉としての「現在主義」ですが、もし、ある人が先祖から伝えられた歴史を次の代に伝えられないまま亡くなったならば、この歴史は消えてしまいますが、それはもはや「事実」ではなくなってしまうのですか?

そうですね、それゆえに中国では、家を継げずに死んでしまう夭折者を最大の不孝者としたのです。彼らは非業の死者であるわけですが、孝の概念から一族の宗廟では祭祀を受けられませんでした。ゆえに(観念的世界においては)悪霊となるしかなく、修祓など種…

鉄剣などの金石文は、どのように書かれるのですか。この技術も、渡来人によってもたらされたものですか。

鉄剣などに記す金石文のありかたは、陰刻・陽刻の2つがあります。前者は金属器自体の完成したあとに文章を刻むもの、後者は金属器の型に文章を彫って鋳造を行うものです。刀剣の場合は鋼を打ち鍛えて製造しますので、多く陰刻によって銘文を作成します。弥…

仏教公伝の年代については、538年と552年のどちらが正しいとお考えですか。 / 継体没年・欽明即位年はどれが正しいとお考えですか。

仏教公伝の年代については、『書紀』に載せる欽明天皇13年(552)説、『元興寺伽藍縁起』『上宮聖徳法王帝説』などに載せる欽明天皇戊午年(538?)説があります。従来は、仏教関係史料に書かれた後者が有力でしたが、近年はその史料性を疑問視する見方も出…

倭国と百済との友好関係は、なぜ長きにわたって続いたのでしょうか。

朝鮮三国と倭国に通交が発生した四世紀後半、すでに百済・高句麗は敵対関係にあり、百済は高句麗との戦闘を有利に進めるため、海を挟んで隣接する倭国と同盟関係を結んだようです。高句麗の広開土王の時代には、百済と加羅地域が連合し新羅に敵対したのに対…

日本は奴国の朝貢の時代から、中国王朝と戦争をしたわけでもないのに従属の形を取っています。それはなぜでしょうか。

弥生時代を通じて、列島には様々なレベルでの渡来人が訪れています。とくに金属器の生産に関しては、朝鮮半島等々から原料や技術を輸入し、それをなしうる人物こそが支配的立場に就いていたものと考えられます。中国王朝の情報は、すでに多様な形で伝わって…

倭王武と雄略が同一人物ならば、允恭が済、安康が興と単純に考えてもいいと思います。なぜ諸説あるのでしょうか。 / 「讃」は日本の天皇の中国語読みなのだと思いますが、なぜ中国名が勝手に付けられているのですか?

『宋書』に載る上表文にみられる倭王の中国名は、同文章を作成した渡来人が、大王の名の一部を採って中国的に表現したものと考えられます。「武」はワカタケルのタケルに相当し、「讃」はホムタワケのホムに当たるのでしょうか。上表文を中国的形式に則って…

倭王武が、「七国諸軍事」を要求したにもかかわらず、宋の順帝が「六国諸軍事」と叙爵し、加羅への権利を与えなかったのはなぜでしょうか。 / 宋の順帝は、倭王武の身辺調査もせずに、上表文だけで叙爵したのでしょうか。

宋はこの除正を通じて、朝鮮半島の政治的情勢を自国に有利に展開しようと図っています。政治的パワーバランスを考えて、要請に応えて正式な除正を行うかどうかを決定していると考えられます。武は加羅への軍事的顕権限だけでなく、開府儀同三司への任命も認…

『宋書』も中国王朝の正史として、さまざまな政治性のなかで成立していると思います。『宋書』の記述自体は信用してよいのでしょうか。

もちろん、『宋書』にも政治性がありますので、記述が客観的に正しいものかいなか検討が必要です。しかし、上表文に関する部分は『宋書』の地の文ではなく、基本的に上表をそのまま引用しているとみられる箇所なので、省略こそあれ、意図的な改変はなされて…

『書紀』が、対外的に天皇のありようを誇張して描くことに、具体的にはどのような利点があったのでしょうか。

『書紀』は中国王朝や朝鮮三国を意識して書かれていることは確かですが、実際上その記述の視野に収められていたのは、むしろヤマト王権を構成する諸豪族、地方諸勢力、そして国家を支える官僚たちであったと考えられます。『書紀』は成立後間もなくして、官…

『古事記』は、書かれている神話の新しさから偽書説も唱えられていますが、先生はどのように考えていますか。 / 『古事記』『日本書紀』は、そもそも史料として利用できるのでしょうか。古代日本を考えるためには、何を史料とすればよいのでしょうか。 

現在は、『古事記』の序文を疑う見解はありますが、全体を偽書とみなす説は少なくなってきました。音韻や文章の詳細な分析も進み、8世紀前半のものとみて間違いないという評価が定着しています。神話については、これといって「新しい」という感覚はありま…

王位継承に関して、「大和王権とは違うグループ」云々がよく分かりません。他に幾つかあったという認識でよいのでしょうか。

これまでお話ししてきたように、ヤマト王権は、ヤマトのグループを中心とした幾つかの政治集団の連合体です。吉備や出雲、北九州、東海には、王権と同盟した強大な勢力の存在したことが分かっています。しかしヤマトのなかにも、血縁原理でまとまった幾つか…

王位継承は実力重視から血縁原理へ移行したとのことですが、なぜ『古事記』『日本書紀』は、すべてを血縁原理で創作したのでしょうか。実力重視の内容でもよかったと思うのですが。 / 権威付けを無理にするほど、万世一系に意味があったのでしょうか。

恐らく、『古事記』や『日本書紀』を生んだ7〜8世紀のヤマト王権が志向したのは、「革命のない王朝」であったと思われます。彼らが国家形成の手本とした中国王朝は、革命によって王権の健全さが保たれる(ことを名目としている)国家形態でした。版図が極…

5〜6世紀に導入された王位継承に関する血縁原理は、そのまま現代の天皇にも繋がっているのでしょうか。

中国的な父系直系原理を理想とする形に整備されてゆきますが、当初は母系要素(つまり双系制)、非直系的要素も強かったものと考えられます。7〜8世紀の女帝の出現はそのことを証していますが、男性の正統的後継者が未だ即位できない場合、その後見として…

天皇家の実際の家系について調べ、発表することは、あるリスクを伴うのではないでしょうか。現代日本でも天皇家は一種のタブーになっていると思います。古代についてであれば、いくらでも研究できるということでしょうか。

現在、天皇家に関する歴史研究は、現在の皇室のプライベートに関わる問題でない限り、ほとんどタブーはありません。まともな古代史研究者であれば、誰ひとり「万世一系」神話を信じてはいないでしょうし、系譜・系図関係の研究も活発になされています。唯一…

我々の用いる私的言語・私秘的言語は、実証史学の枠組みからは抜け落ちてしまうものと思います。そこには「徴候」的要素がみられる、と指摘した知人がいたのですが、もし歴史学がそのようなものについて何かしらの記述をしようと試みた場合、どのような方法があるでしょうか。

カルロ・ギンズブルグの邦訳書に、『神話・寓意・徴候』(せりか書房、1988年)があり、そのなかに「徴候」という興味深い論文が収められています。ギンズブルグはそのなかで、何でもないような日常の記録に「徴候」を認め、重大な全体像を構築してゆく歴史…

古代中国において、史官は権力者の強制に抵抗して直書を行ったとのことですが、権力者の側はどのように感じ、どう行動したのでしょうか。

もちろん、権力者の側はその正当性を確立するため、史官側の直書に対し厳罰をもって応じることも少なくありませんでした。『春秋左氏伝』には史官=卜官による諫言が多く載せられていますが、それに従わなかった君主は多く滅びに至っています。こうした記載…

中国古代にみられる諫言は、後代の『史記』をはじめとする史書などに、少しずつ形を変えながら残っていったということでしょうか。

史官たちは歴代王朝や諸侯に奉仕しつつ、しかしその倫理的核は天や祖先に置いている。自らの仕える君主が天命に沿っていればその意に従うが、それに違背すれば躊躇なく筆誅を加える。それが、史官のひとつの理想型であるわけです。歴代の正史は一応その立場…

上野千鶴子さんの態度について、よく理解することができませんでした。現在の闘争というのは、どういうことなのでしょうか。 / アウシュヴィッツや従軍慰安婦問題などの過去の存在や犠牲は、上野さん的な見方では、過去のものとして扱えなくなるのでしょうか。現在においては、過去に犠牲とされたものは犠牲とは受け取られないのですか?

上野千鶴子さんらの標榜する構築主義を徹底するとすれば、私たちの認識する〈過去〉は、あくまで現在の私たちが現在の視点・価値観で構築する〈つくりものとしての過去〉に過ぎなくなってしまいます。すなわち、テクストと過去との繋がりはなくなり、そうし…

幕府政治のルーツが府官制にあるとのことですが、頼朝はそれを知っていたのでしょうか。

きちんと実証したわけではありませんが、源頼朝が幕府を開く際に、大江・三善という文人官僚を招いている点が重要です。とくに大江広元は、紀伝道(当時の歴史学)の大家である大江維光の名跡を受け継いでいました。また、広元の曾祖父匡房は、院政期随一の…

府官制は、朝鮮においても行われていたのでしょうか。

行われていました。『宋書』夷蛮伝では、高句麗王と百済王に将軍位その他が授けられ、漸次褒進されている様子をみることができます。恐らく、宋が半島経営をその思惑どおりに行うため、対立する諸勢力にそれぞれ称号を授け、牽制しあうようにし向けているの…

銅鏡を与えることで、どうして国と国との繋がりが出来たのでしょうか?

銅鏡は宝物として賜与したものでしょうが、その銘文には鋳造した国家の年号が入っているので、国と国との交通を証すものになったということでしょう。正式な形は、某国の朝貢に対し中国皇帝が賜与した旨を示す銘文が刻まれますが、この頃には大量生産され半…

卑弥呼が狗奴国と争ったとき、魏に軍の派遣を要請したものの受け入れられなかったと聞きましたが、なぜですか。 / 狗奴国の背後に呉がいたのではないか、という見解についてはどう思われますか。

「狗奴国の背後に呉がいた」ことは、可能性としては高いのではないかと思います。少なくとも、魏はそのように考えていたようです。「卑弥呼が魏の援軍を求めたが受け入れられなかった」というのは、史料的には正確ではなく、倭人伝による限り、「卑弥呼が狗…

『魏書』では倭国が好意的に扱われていたそうですが、推古朝の外交を扱った『隋書』では「蛮夷の書、無礼」などとされています。そんなにコロコロ評価の変わる中国の史書を、どの程度まで信用してよいのでしょうか。 / なぜ、『魏書』は倭についてそれほど記述を割いているのでしょう。呉のような海洋国家の方が、よほど倭と関わりがあったと思うのですが。

中国の歴代の正史は、時代ごとの王朝の意図を反映しますので、そのつどの政治的局面によって書き方が変わるのは当たり前です。それを充分に考慮して、批判的な読解を行わねばなりません。また、誤解のないように書いておきますが、いくら『魏書』が倭を好意…

亀卜などは、具体的にどう出れば吉で、どう出れば凶なのでしょう。

中国では、甲骨の裏側を定型的に削り込み、熱すると「卜」の亀裂が入るように調整して卜占が行われました(これが「卜」字の起源です)。この図形が美しく出ること、そしてキツという音の発生することなどが、吉凶判断の基準になったようです。周代頃には、…

日本では太占として鹿骨を扱っていましたが、中国では亀や牛の骨が使われていたとのこと。この相違は一体何を意味するのでしょう。

中国でも、狩猟採集時代には鹿骨を使用していました。これが、牧畜の開始に伴って牛や羊へと移行し、殷代に亀甲が主流になってゆくのです。しかし、中国東側の山東半島周辺では、中原地域で牛骨や亀甲が主流になった後も、鹿骨を用いて卜占が行われていまし…

亀卜に使用したのは、どのような種類の亀なのでしょうか。

殷代に主に使用したのは、陸地で普通に確保できるクサガメやハナガメでした。これは、殷に服属する周辺の異民族から、定期的に集められていたようです。日本ではウミガメが使われますが、これは日本が島国であったこと、中国からの導入の担い手となったのが…

甲骨文字のところで、亀を神聖視したとの話がありました。占いをするためには亀を殺したと思いますが、神聖視していたなら殺したりするでしょうか。

狩猟採集社会の説明でも述べましたが、アニミズム世界においては、ある動物の神聖視とその殺害とは矛盾しません。亀の場合も、卜占をする際に卜官が亀の神霊へ呼びかける祭文が読まれますので、当時の殺害は現代的な意味での殺害とは内容が異なるのだと分か…

中華思想は、アジア以外のヨーロッパ地域などにはなかったのでしょうか。

中華思想をどう定義するかによりますね。これは自国を中心として、周囲を文明の届かない蛮族とみなし、彼らを教化し文明に組み入れてゆくベクトルを持った思想です。そういう意味では、ヨーロッパの古典古代が周縁をバルバロイとみなし、やがてローマ帝国の…

「中華」は世界の中心を意味するとのことですが、それは中華人民共和国にも引き継がれているとしてよいでしょうか。もしそうなら、他国から批判されないのはどうしてでしょう。

中華人民共和国の「中華」も、もちろん世界の中心を意味します。しかし、国名におけるナショナリズムは世界に共通のものですから、国際秩序においてはある程度許容されているとみてよいでしょう。それを非難するのは、それこそ内政干渉というものです。例え…