2012-06-01から1ヶ月間の記事一覧
一応は、現在のナショナリズムに近い世界意識を持って、世界の中心を標榜していたとしてよいでしょう。しかし、その「世界」が中国等々も含むものであったのかどうかは、議論のあるところです。例えば、雄略天皇時代の鉄剣銘からは、ヤマト王権が、中国王朝…
資料に示した山口神社の多くは、山口祭儀を行っていた場所に、恒常的な社殿が建立されるに至ったものと考えられます(すべての山口神社がそうだ、ということではありません)。それらのうち、もはや木を切り出さなくなった場所でも、地域や王権の守護神と位…
音、すなわちヤマト言葉としての使用が先でしょうね。しかし、語源については諸説あり、定説をみていません。例えば、キソダテヤマ(木育山)の略、ソノムラ(薗村)が転訛したもの、ソグ(削ぐ)・ヤマ(山)の略、といった見解があります。
これについては、議論が繰り返されており、定説をみない情況です。しかし、幾つかの理由を挙げることはできるでしょう。第一に、都城制を導入する前に行われていた歴代遷宮制が遺存し、天皇の代替わりごとに宮を変える慣習が持続していたこと。第二に、都城…
伝承としては、渡来人たちによってもたらされ生産が本格化したといわれていますが、恐らくは事実でしょう。中心的役割を担ったのは、新羅系の渡来氏族秦氏です。彼らは広汎な殖産興業を担いましたが、養蚕と絹の生産はその中核をなしていました。その後律令…
一応は、当時の発掘品や絵画に基づき、平城京や平安京の資料も参照することによって作成されていますが、もちろん推測であることは否定できません。限界があることに注意は必要です。
対象物にレーザー光を照射し、その反射光が戻ってくる時間をもとに、精細な計測を行う方法です。レーザーを使った3次元スキャナ、と考えていただいていいでしょう。箸墓については、これを上空から行い、精密な立体復原図を作成しました。宮内庁の管理によ…
ニュー・ヒストリーは文字どおり「新しい歴史学」で、アナール学派が学界に与えた刺激に基づいて、伝統的な政治史・国家史・人物史を批判するなかで生まれてきた諸研究のことです。日本の文脈では、「社会史」といいかえてよいかも知れません。一般に「ニュ…
私の説明の仕方が悪かったですね。まず、人間は社会のうちで先人の物語を授受し、それを範型として生きているというのは、人間社会のなかで物語/物語りが果たしている役割です。しかし、その〈先人の物語り〉を提供する歴史的知識は、多く権力によって歪め…
意義はある、とすべきでしょうね。もっと正確ないいかたをすると、「意義」や「重要性」は支配的価値観によって付与されるものなので、逆に歴史の多様性を阻害するものとなってしまうのです。一方では「個別分散化」との批判を受けることになるでしょうが、…
確かに「現代語訳」は一種の翻訳作業ですから、時空を飛び越えて、過去を現在に従属させてしまう方法以外の何ものでもありません。ゆえに伝統的歴史学においても、知識の社会的還元の便法とのみ捉え、研究の方法としては肯定していないと思います。しかし、…
そんなことはありません。講義でも度々紹介しているのですが、私の説明の仕方が悪いのでしょうね。例えば今回採り上げたラカプラなどは、実証史学の史料批判に対して、文学批評の方法論を用い、多様な解釈を示すことで対案を示しています。それは「実証」さ…
一応は授業中に説明したはずですが、もう一度繰り返しておきます。「機械論」は、世界を機械と同様とみて、そこに発生する事象をすべて力学的に理解可能であるとする見方です。「有機体論」はより複雑で、例えば生態系のように、様々な要素が相互に関係しあ…
著作権の問題上、授業で扱うことのみが許されているデータもありますので、残念ながら提供できません。レジュメの参考文献リストに掲載のものもありますので、自分で購入するか、あるいは図書館でコピーしてください。
日本の神話や伝承、昔話がどのような原型から派生するのかということは、それ自体が学説、研究成果ですので、簡易に分かるものではありません。ただし、中国の神話や昔話に触れてみたいということなら、幾つか分かりやすい日本語訳が出ています。事典の類も…
藤原京を計画・立案していた頃、倭は、白村江の戦いによって対峙した唐・新羅のうち、新羅とは国交を回復していたものの、唐とは断絶状態にありました。ゆえに、藤原京造営のもとになった中国的都城のイメージは、新羅経由で日本にもたらされたと考えられて…
藤原京と長岡京は地名を援用したものです。その他の、難波京、大津京、紫香楽宮などもそうですね。ただし藤原京については、史料的には宮/京で呼称が異なります。「藤原宮」という記述は『日本書紀』にあるのですが、実は「藤原京」はなく、研究者が便宜的…
『古事記』や『書紀』に収録された神話については、いただいた質問のとおり、成立した時代や地域も異にするエピソード群が、7〜8世紀にかけて成文化され、改変・編集されたとみるべきです。例えば『古事記』神話に特徴的なオオクニヌシの物語など、彼が幾…
講義で扱った『書紀』仁徳天皇11年10月条が、一応は日本における人柱の初見史料とされています。しかしよくよく内容をみていると、武蔵の強頚は入水して河伯の生け贄となってはいるものの、「柱」にはなっていません。ゆえに厳密には、人身供犠の史料ではあ…
存在しました。奈良時代には、温暖化と政府の勧農策のなかで、有力豪族や有力農民層の間に開発推進の気運が高まります。とくに畿内周辺では、溜め池や樋などの灌漑施設を造営する動きが活発化しましたが、その中心には例えば行基などの僧侶がいました。彼ら…
女神を奉祀していながら女人禁制である、という事例は、実は日本列島に多く見出すことができます。例えば、日本ではかつて、常時女人禁制になっている山、決められた時期のみ女性の入れない山が多くありましたが、民俗的な山の神は女性であることが非常に多…
日本古代の祭祀は、多く中国や朝鮮半島の影響を受けてきました。やがて成立してゆく律令の祭祀規定「神祇令」も、中国唐令の「祠令」に基づき、日本列島の実状に合わせて改変を行ったものでした。狭義の祭祀ではありませんが、例えば古代国家で最も位置づけ…
湧水点祭祀・導水祭祀自体が、古墳時代の権力者の死生観と関わっているわけではありません。ただし、水田の豊穣を保証する水が、死者の世界とも密接に関わっていたことは指摘できます。例えば、以前に海上他界観を反映していると説明した、装飾古墳の死者を…
正確には、祭祀を行う場所、奉献品の種類やその設置場所が変化してきたことで、祭祀の形式が変わったと捉えられるのです。祭祀を行う場所の変化がなぜ起きたのかは、充分な証拠をもって説明することはできませんが、例えば神観念の変化が影響しているのだと…
寺野東遺跡は、ストーンサークルが祭祀舞台化した「環状盛土遺構」で有名な遺跡ですね。盛土遺構自体は、縄文人が身に付けて祖先や神霊を演じたとみられる仮面なども出土しており、恐らくは祭祀遺構であると考えられます。しかし水場の遺構は、主に堅果類の…
列島の家族文化は、本来は、母系・父系の両方がありうる双系制でした。しかし、古墳時代の中期頃から、中国文化の導入によって父系制が強くなり、家長職も男子相続が一般化してゆきます。家父長制の確立は、平安期に天皇家や摂関家から始まってゆきますが、…
例えばお隣の中国には、古い創世神話のひとつとして、やはり世界を神が生み出したとするものがあります。主人公は伏羲・女媧という夫婦神で、上半身が人間、下半身は蛇の姿をしていました。漢代に現れる両神の図像では、彼らは手にコンパスや定規を持ち、尾…
実は、仏教も神道も、現在、あらゆる通過儀礼・諸行事を担う機能は持っています。寺院でも初詣や種々の祈願は行われていますし、結婚式も開かれます。最近では、東貴博・安めぐみの仏式結婚式が浅草の浅草寺で行われましたし、私も築地本願寺で仏式の結婚式…
確かに古代においては、一方で自然環境の大規模開発を展開しつつ、もう一方で自然への祭祀を継続していました。しかし果たして「両立」できていたのかというと、やや疑問に思われる点もあります。『書紀』や『続日本紀』を読んでいると、例えば過度な樹木伐…
現在は三鷹市深大寺に住んでいますが、八幡社だの御嶽社だのが近くにありますね。村落内の小社・小祠は、江戸期に各種神道や修験道諸派に吸収され、摂社・末社になったものがほとんどです。ゆえに、八幡・春日・諏訪・熊野・御嶽など、大神社と同じ名称を持…