2017-05-01から1ヶ月間の記事一覧
発生します。神話が口伝で語り伝えられてゆく限りは、どこかで必ず文脈の変化を生じます。文字の場合にも同じことがあり、それゆえに幾つもの写本が発生してくるので、口伝の場合は推して知るべしです。しかし、まれに不思議なことも生じます。『奄美沖縄環…
日本では、都市の固有性を主張する伝承は希薄な気がしますが、例えば、14世紀の由阿による『万葉集』注釈書、『詞林采葉抄』第五/鎌倉山には、鎌倉の地名由来として次のような伝承が出てきます。7世紀半ばの乙巳の変前夜、蘇我氏打倒を決意した中臣鎌足は…
比較できないわけではなく、「安易に」比較できないとお話ししたわけです。例えば、授業で扱った黄泉国神話とオルフェウス神話の形式的類似を例に、古代ギリシャ人と古代日本人の冥界観には共通性があるという結論に到達したとする。しかし黄泉国神話は国家…
まず正確を期すために述べておきますが、幕末〜明治にかけては冥顕論が定説だったのであって、異端的ではありません。現代の人間がこれを異端的とみるのは、ものの見方が近代神道に馴らされているからに過ぎません。古代から近世に至る神祇信仰の歴史を通覧…
冥顕論においては、まさにそうです。神社に関わる古代的制度においては、皇祖神を祀る伊勢神宮が別格の扱いを受けていたわけですが、中世や近世の時間的経過のなかで、それらも大きな意味を持たなくなりました。各時代においてどれだけ社会の需要に応えてい…
意図的というより、神話が集合的なものであるからこそ、作者の名前が存在しないのです。長い期間をかけて、ある集団のなかで語り継がれ、その都度集団の意志を反映しかつ規定してきたところに、神話が共有される必然性があるのです。
必ずしもそうとはいえません。なぜなら、シャーマンはいわゆる平等性社会のなかにも存在するからです。あくまでその発生は、偏重した力との関係ではなく、神霊との交渉において共同体を代表する者として考えるべきです。しかしその特権性、すなわち神霊との…
近代が中世的なものとの決別とすれば、本来は宗教や神話の価値が弱まるはずなのですが、近代に勃興する国粋主義・民族主義の場合は、やはりおしなべてナショナル/エスニック・アイデンティティの根幹たる神話が持ち出されてきます。多くの集団を国民国家に…
上にも少し触れましたが、研究者がどちらかに決めてしまう、決めなければならないということはないでしょう。神話としても歴史としても機能する、ということでよいのではないでしょうか。例えば一部の日本史の教科書では、神話に関する記述が復活しており、…
もちろん、それもあるでしょう。首刈りを含む(とくにそれが自民族ということになれば)人身供犠は、あらゆる祭祀のなかで最も根本的なものであると考えられています。神霊に捧げ物をして何らかの祈願をする際、その捧げ物は、自分にとって身近で大切なもの…
そうですね、神話/歴史といった区別は、ある意味で研究者による分類に過ぎないのかも知れません。このあと授業でも扱うつもりですが、歴史感覚が発展してくると、神話と歴史とは過去の時間のなかで接続され、神々の時代は特定の時間のなかに置かれることに…
倫理的に過ぎるかもしれませんが、やはり、自分自身の行動において反省することこそが、「振り返ること」だったのではないでしょうか。未だ定住を始めていない移動生活においては、毎日が生存と関わる選択の連続だったはずです。例えば、自分たちの進んでき…
王仁にしても阿知使主についても、伝説的な人物であることに違いはありませんが、それぞれ『日本書紀』に「書首等祖」「倭漢直祖」と明記されていますので、8世紀初めの段階で、氏族/王権の間に一定の共通認識のあったことは確認できます。しかし始祖伝承…
授業でもお話ししましたが、中・下級の官人としての登用は極めて多いですね。とくに根拠地である山城国へ都が遷ってからは、多くの人材を輩出しています。珍しいところでは、陰陽師でよく知られる陰陽寮や雅楽のメッカ宮内省雅楽寮にも、秦氏の出身者がみら…
コアな質問ですねえ。昨年の特講でも扱った世界樹、柱、リンガ、須弥山は、すべて世界の中心を示す象徴として、同じものであると考えられます。これも普遍的にみられる神話素ですが、世界に秩序をもたらし所有権を標榜する杖、杭、杵なども同じです。列島を…
上でも触れましたが、日本の場合、刑罰としての遠流の地は概ね海に面した周縁部へ設定されています。山への隔離は国の内に危険なものを抱え込むことになるので、国家としては積極的には行わなかったのでしょう。海へ流すことは、やはり上に触れましたが、日…
もちろんそうですね。人形とは形代ですから。より正確には、自分に付着した罪や穢れを人形に代わって背負わせ、これを他界へ送るということになります。人形のほかにも、平城京段階で人面墨書土器、土牛、土馬、絵馬などが類似の機能を持つものとして用いら…
古代律令国家では、遠流の対象国が、伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐に設定されていました。いずれも島、半島の端、東北地域との境界に当たる部分で、「辺縁部への追放」ということなのでしょう。しかしそのなかでなぜ土佐が選ばれたのかには、少々特別…
日本人は邪なものを川へ流すとの話がありましたが、中国でも死体を川に流すことはありましたし、インドでもガンジス川へ遺体を流す遺灰を流す風習があります。これらはすべて共通の心理に基づくものなのでしょうか。
時代や地域によってずいぶんと考え方が違いますので、一概にすべてを共通とみなすことはできません。ガンジス川は生命の根源たる神聖な河川であり、それゆえに人々は水の物理的な清濁にかかわらず沐浴を行い、魂の浄化と再生を願って遺体を「送る」わけです…
川や海など、大量の水の持つ浄化作用(もちろん根本的な浄化ではなく、「拡散」に過ぎないわけですが)を、経験的に知ったことに由来するわけですが、それだけ日本列島が水の豊かな環境にあったということです。また、海の向こうには浄穢渾然一体の他界があ…
残念ながら史料的に確認はできません。近代に至るまで、発症者は共同体に止まることができず、漂泊を余儀なくされる場合も多かったと考えられます。中世の『一遍上人絵伝』などにみるように、路傍に座り込むハンセン病患者の姿は、古代でも見受けられたでし…
古代の医療情況では、感染すると完治できない業病であり、それゆえに感染経路や予防措置などは講じられていなかったので、近代以降より発症率は高かったはずです。しかし感染力が弱いことから、いわゆるパンデミックなどが招来されることはなかったでしょう。
確かに、前近代の列島社会においては、他とは異なる障がい者を神聖なものとして遇する風習もあったようです。北海道洞爺湖の入江貝塚から出土した縄文期の人骨「入江9号」は、小児麻痺により四肢の動かなくなった女性が、成人するまで生存していたことを明…
共通との相違ゆえの忌避というのは、マジョリティであらねばならないという現在の風潮に通じるものがある。日本は単一民族国家であるという幻想のなかで生きているせいだと思っていたが、古代でもそうなのだろうか。
確かに、近代国民国家下の社会よりは古代社会のほうが、差異については寛容であり、多様性を保持していたと考えられます。前近代の差別などを扱う通常の研究も、そういう「括り」を付けたがるんですね。しかし今回の講義では、そうした常套的なまとめのあり…
まず、民族という概念に誤解があるかもしれません。民族とは、人種のような自然科学的生態学的概念ではなく、あくまで文化的社会的概念です。すなわち極端なことをいうと、(そういう事例は滅多にありませんが)人種が異なっていても同一の民族文化を共有し…
近代国民国家のような統一された状態ではもちろんありませんが、多様な事情から移動のなかにあった人々ほど、居住地域のコミュニティに比して高次なレベルの共同体意識を、何らかの形で持っていたようです。それは、交通や流通について、王権や国家などの高…
当然検証すべき重要なことですが、内容や形式・分量の多様さ、告白内容の苛酷さ、収容所への改善要求が(恐らく自粛のバイアスがかかっていたはずであるにもかかわらず)比較的多いことからすると、捏造というには当たらないだろうと評価されています。収容…
そうですか……いや、講義でもお話ししましたが、観音が龍蛇と信仰を共有することは、日本においてはむしろ一般的なんですよ。観音はその所依経典である『妙法蓮華経』観世音菩薩普門品、その抽出である『観音経』にさまざまな霊験・功徳が書かれていますが、…
いや、もちろんそうです。例えば数年前、広島で大規模な水害がありましたが、同八木地区の被害地域には「蛇落地悪谷」との特徴的地名が残っていました。長野でも鉄砲水のことを「蛇抜(蛇が通り抜ける)」といいますが、水害を蛇の物語として表象する例は多…
現在は、帰宅困難区域の指定が解除されて間もなく、またやはり「安全な状態」とはいいがたいので、地域の歴史・文化、信仰を、充分に取り戻してゆく心的余裕がないのだといえるでしょう。しかしより北側の地域では、津波被害に遭った多くの神社が復興され、…