2008-06-01から1ヶ月間の記事一覧

ドラマ『聖徳太子』で、古代人のしていたメイクが興味深かったです。赤や白の顔料はどのようなものなのでしょう。 / 赤には魔除けの意味があるとのことですが、名前はあるのでしょうか。また、赤以外にも特別な意味を持つ色はありますか。

例えば赤色は、酸化鉄系のベンガラ(いわゆる朱。弁柄。インドのベンガル地方の原産なのでこう呼称されるという)、硫化水銀系の辰砂(いわゆる丹。中国の辰州原産)に二分されます。いずれも、石器時代より破邪の顔料として用いられ、墳墓などには濃厚な施…

ドラマ『大化改新』の衣装は、冠位十二階に基づいて作られているのでしょうか。また、何を資料として復原されているのでしょう。 / 紫が最高位の色ならば、入鹿ではなく天皇が身に付けているべきではないでしょうか。

ドラマの衣装復原は、冠位十二階の制度を基本に、高松塚古墳の壁画、藤ノ木古墳出土の装飾具などから創造的に復原されています。入鹿の紫衣・紫冠は大臣の身に付ける衣装で、冠位十二階のに含まれない特別な礼冠・衣服です〔若月義小『冠位制の成立と官人組…

ドラマをみていて気になったのですが、古代の建物にはどの程度屋根が付いていたのでしょう。

基本的に、板葺き、檜皮葺、茅葺きの屋根は存在しました。ドラマで描かれていた露天の広場=朝庭は祭祀・儀礼の場で、そうした空間は神が降りてきやすいように、また天のもとに明らかなように屋外に設定されるのが普通なのです。

〈描く〉ことで鎮祭するという宗教的実践は、中国から伝わってきたものなのですか。

これは恐らく、仏教の修行のひとつで浄土教にも強くみられる〈観想行〉に由来しています。詳しくは最近書いた、「礼拝威力、自然造仏」(『親鸞門流の世界』法蔵館、2008年)を参照してください。仏や浄土の世界を現実にあるかのように思い浮かべる、そして…

郎女が海のなかでみつけた白珠を、途中で放してしまうのはなぜですか。生者と死者は一緒にいられないという暗示でしょうか。

あれは、川本喜八郎の表現が、原作に追い着いていない箇所といえるかもしれません。打ち寄せる波のなかを通る一本の道は、浄土教でいう二河白道を表しているのでしょう。それは、燃えさかる炎と逆巻く波のなかにか細く通る救いの道です。郎女はその道のうえ…

大津皇子のように非業の死を遂げ、罪人として葬られている人が、神々しくみえたのはなぜですか。

あれは南家郎女の主観ですね。物語のなかで触れられていましたが、彼女は藤原氏の氏神に仕える巫女であり、怨霊=祟り神となっている大津皇子に取り憑かれてしまっています。神婚譚では、神の訪問を受ける女性は、神を必ず〈美しい男性〉として認識していま…

大伴家持と恵美押勝の会話の意味がよく分かりませんでした。藤原南家郎女が仏の名を称えると、大津皇子が去ってゆく理由が分かりませんでした。

ここは、一級の文人でもあるふたりが文学談義をしている場面ですね。やがて話題は南家郎女のことに移りますが、彼女は神に仕える巫女になる女性、「神のもの」なので手が出せないという結論に至ります。しかし本当のところは、二人とも郎女に心が残っている…

大伴家持の衣に朱雀の文様がみえました。都の朱雀大路もそうですが、なぜ朱雀だけが特別視されるのでしょう。

必ずしも特別視されているわけではないと思います。都の朱雀大路は、北方にいて南面する天子の、その南方に伸びている通りなので、南方の守護神の名を取って呼ばれているに過ぎません。ただし、図像として極めて優美であり、極楽にいるという仏教の鳳凰など…

物語のなかで出てきた、弓張りや足踏みといった行為は、一体何の意味があるのでしょう。

講義の最後にもちょっとだけ触れましたが、二つとも辟邪の機能を持つ呪術です。前者はあずさ弓といい、みえない矢を放って邪霊を威嚇します。後者は反閇といい、中国の治水王禹が全土を遍歴した際の歩みを真似たものです。大地を鎮祭し、行路の魔を祓います…

史料に挙がっている『延喜式』の章題にある、「四時祭」「祈年祭祝詞」「大忌祭」「神名帳」「大和」がよく分かりません。山口神社の表の見方もよく分かりません。

「四時祭」は春夏秋冬それぞれに行う年中行事としての祭祀の総称。「祈年祭」は、毎年2月に行われる最重要の律令祭祀で、天皇が公認の神社へ幣帛を頒布する一種の農耕予祝祭儀。「祝詞」はその祝詞。「大忌祭」は、毎年4・7月、朝廷が大和国の広瀬社・山…

格と式の違いがよく分かりません。

講義でも触れましたし、日本史・世界史とも一応は高校で習っているはずですが(世界史では中国史に出て来ます)、もう一度説明しておきましょう。格は律令の補足・修正法で、時代情況に合わせ、令の規定の足りないところを補ったり、令意を変更したりする法…

地名や職掌と人名が一致しているのは、何か関係があるのでしょうか。

氏族が本宗から分岐してゆくときには、移り住んだ場所や新たに担うことになった職名をウジ名に冠するのが普通で、これを複姓といいます。例えば蘇我倉山田石川麻呂んの名前には、職名を表すクラ、本拠の地名を表すイシカワが盛り込まれています。

有間皇子は蘇我赤兄に簡単に唆されていますが、謀反の起こし方が軽率ではないでしょうか。

実際はもっと複雑な事情があったのでしょう。また蘇我氏については、本宗が中大兄・中臣鎌足によって滅ぼされているわけですし、味方した石川麻呂も無実の罪で自殺させられているわけですから、当時の宮廷社会にあって、必ずしも「親中大兄」一色でみられて…

最終的に、なぜ斉明の子供たちが手がけた『日本書紀』に、あれほど色濃い批判が書かれているのでしょうか。

完全に、編纂時の天武皇統に有利な記述しか書かれてないわけではない、その点に『書紀』の史書としての客観性があるのでしょうね。中国王朝の正史を編纂してきた史官たちには、代々「王権より以前に天に奉仕している」との意識が強く、所属する国家や帰属す…

天皇の開発に対する反発はどのような形で天皇に伝わったのでしょうか。 / 斉明天皇が中国の様式を取り入れて王権を強化したかったのは分かりますが、こんなに批判を受けたらさすがに諦めるのではないかと思うのですが。

飛鳥という空間では、王と民の間はそれほど隔絶していなかったと考えられます。もちろん、民が直接王に苦情を訴えることはなかったでしょうが、その不満や怨嗟が、豪族たちを介して王に伝わることは充分にあったでしょう。古代の史料には、時折「時の人の云…

高校の教科書で、「藤原京は石上山の木材を大和三山に囲まれた所に運搬し、造営された」と習ったのですが、本当ですか?

恐らく、「石上山」ではなく「田上山」の記憶違いでしょう。後日講義でもお話ししますが、田上山は滋賀県の南部にある山で、古代から連綿と林業が盛んに行われた場所です。藤原京造営時にここから木材が伐り出されたことは、『万葉集』の「藤原宮の役民の作…

石の山丘を作るために使われた天理砂岩は、当時としては高級な石材だったのでしょうか。

古墳時代からよく使用されている飛鳥の石材として、石上山の石と二上山の石が挙げられます。高級というより、まずは加工しやすかったこと、そして宗教的な意味を持っていたことが指摘できます。二上山は飛鳥からみて太陽が沈む真西の方角にあり、冥界のある…

レポートテーマの発表もしましたので、とりあえず、まだ単元の終わらない飛鳥・藤原の、現時点での参考文献を掲載しておきます。

相原嘉之 2004 「酒船石遺跡の発掘調査成果とその意義」『日本考古学』18今泉隆雄 1986 「蝦夷の朝貢と饗給」高橋富雄編『東北古代史の研究』吉川弘文館 1993(1992)「飛鳥の須弥山と斎槻」同『古代宮都の研究』吉川弘文館小澤毅 2003(1988)「伝承板蓋宮…

西の山が死者の世界であるのなら、東の山にはどういうイメージがあるのだろうか。

東は太陽が昇るところですから、神聖で生命力に溢れたイメージとなります。たとえば二上山に対応する三輪山は、もともと王権の太陽信仰の聖地で、歴代の天皇霊(天皇の霊魂というより、その霊的権威を保証するエネルギー)が宿り、皇位継承にも深く関わる存…

現在の葬儀に用いる清め塩のようなものを、古代日本でも使っていたのでしょうか。また、現代の葬儀のありようについて、式の執行後の行動について、地域ごとの相違などあるのでしょうか。

塩は様々な儀礼で用いますが、現在のような死のケガレを落とす代表的役割は与えられていません。清め塩が当たり前のように葬儀の現場で用いられるようになったのは、近世を通じて、都市部における死穢の除去法が平均化した結果でしょう。

インドのサティーのように、日本には殉死の風習はなかったのでしょうか。

『日本書紀』垂仁天皇三十二年七月己卯条の記述によれば、皇后日葉酢媛命の喪葬に際し、それまで行われていた殉葬の旧弊を改めるべく、土部を率いる野見宿禰によって、土人形たる埴輪が創造・設置されたとされています。しかし、考古学的に分析すると、人物…

死者の魂が浮遊する天にある太陽が、それゆえに特別な存在とみられたのだとすれば、アマテラスとの関係が気になる。太陽は霊魂の集合した姿だとはみられなかったのだろうか。

太陽にはさまざまなイメージが習合していると思われますが、確かに最高の霊格であるという認識はあったと思います。ただし、それが死者と直結するようなことは、中国でもなかったようです。しかし、『日本書紀』によるとアマテラスの霊威はすさまじく、最初…

いちど黄泉国から戻ってきた人は、最期にどのような理由で死ぬことになるのでしょう。

よみがえりは、不慮の事故や病没などの頓死がキャンセルされる場合が多いですね。本当の最期を迎える場合には二つのパターンがあり、ひとつは長寿を全うする場合、もうひとつは簡単な理由であっけなく死ぬ場合です。どの方向へ進むかは、よみがえりの段取り…

シャーマンは死者に対して力を持っているのに、どうして神に守ってもらわないといけないのでしょう。

シャーマンは下級の精霊を自分の手足として使えますし、他界の力とも交渉できます。しかし、当然のことながらその能力にも限度がありますし、そもそもその源は精霊との友好・契約関係や、上級の神格への奉仕によるところが大きいのです。個々の死者の力は小…

『古事記』景行天皇段の后妃と皇子たちは、「匍匐ひ廻りて」哭いて歌を詠むわけですが、それは人間と歌のなかの「匍匐ひ廻ろふ野老蔓」という植物と、アナロジカルに結びつけられるのですか。

「匍匐ひ廻る」こと自体は喪葬儀礼の一環で、『古事記』のイザナミ埋葬場面にも出てきます。一方の「野老蔓」は植物の生命力を示すもの、つまり死者の復活を願う類感呪術のように考えられています。しかし、地を這い身をくねらせる蔓のように激しい悲しみを…

桃はなぜ神聖な果実とされたのでしょう。

単純ですが難しい質問です。ありきたりの推論ですが、ひとつには性的象徴(女性の臀部などとの形状類似)からの連想が考えられます。性は生命の根源として、前近代社会・民族社会においては信仰の核をなします。桃に破邪の機能が期待され、不老長寿の仙薬と…

日本の卜占は誰がどのように行っていたのですか。殷王朝では王自身が実践していたと思うのですが...。

殷王朝では、最高の卜官は確かに王ですが、卜府ともいうべき専門の機関が存在し、亀甲や牛骨の調達・管理・整形、卜占の実践・記録等を一括して行っていました。そこに所属する貞人=卜官こそが、歴史を掌る史官の前身でもあります。周代以降は、卜占は専門…

古代の人々は、なぜ呪いやまじないの類を信じたのでしょうか。

宗教や呪術は、前近代において科学と同じ役割を果たしていました。現在私たちは、世界や宇宙を認識する知の体系として自然科学に依拠していますが、世界がどうなっているのか、宇宙がどのように成り立ち存在しているのかを教えてくれるのは、前近代において…

日本的中華思想によって生み出された〈異民族〉は、蝦夷と隼人だけですか。熊襲は違うのでしょうか。 / 差別化されているはずの隼人に、なぜ四神を連想させる名前が付いているのでしょう。

熊襲や南島の人々も服属民として扱われますが、蝦夷や隼人のような特別な位置づけは与えられていません。実質的に夷狄を持たない日本では、この2グループが象徴的に扱われたのでしょう。例えば、出雲国造がヤマト王権への服属を誓う「出雲国造神賀詞奏上」…

中大兄の築いた漏刻台の時間の概念は、観勒の暦法に基づいていたのでしょうか。

恐らく元嘉暦に依拠したものであったと考えられます。石神遺跡からは、持統天皇3年(689)の具注暦木簡が発見されていますが、これは元嘉暦に基づいています。同6年(692)からは新しい儀鳳暦との併用が始まり、文武朝には切り換えられるので、斉明朝は元…