2015-06-01から1ヶ月間の記事一覧
のち、山中に道教の教団などが作られてゆくと、ひとつの町のような様相が作られ、日常的作業も分担されるようになってゆきます。しかし葛洪のなしたような山林修行は、主に個人、あるいは数人でなしたものでしょうから、もちろん自炊が基本だったでしょう。…
誤解を与えたかもしれませんが、これは単なる譬えでしょう。鮮やかな色彩の染め布を作り出すためには、目の悪い者にみられてはならない、そういう習俗があったものと思われます。日本の言霊信仰などとも似ていますが、つまり「真理の分からないものに貶され…
水銀については、もともとその消毒採用、防腐作用などから信仰が始まったものとみられます。それには、いわゆる「朱」色が持つ辟邪のイメージも影響したでしょう。五行思想では、金生水、すなわち金気は水気を生じると考えます。中国の戦国時代に遡る竹簡「…
中国では、大乱期に徴兵ではなく募兵を行うことがよくみられます。『晋書』列伝の葛洪伝によると、「太安中、石冰乱を作す。呉興太守顧祕義軍都督と為り、周玘等と兵を起こして之を討つ。祕、洪に檄して将兵都尉と為し、冰の別率を攻め、之を破り、伏波将軍…
話が大変に長くなってしまうので省略しましたが、実は、文官的様相を帯びた四天王像(正確にいうと、このタイプは広目天に限定されます)は、日本列島独自の様式と考えられています。作例としては法隆寺の四天王像があり、かつて存在した四天王寺のそれも、…
実はこの問題は、以前に論文で書いたことがあります(「神を〈汝〉と呼ぶこと」、倉田実編『王朝人の婚姻と信仰』森話社、2010年)。中国道教などでは、神霊を名前によってコントロールし使役しますので、「汝」という、目下の相手に用いる代名詞で呼びかけ…
宮廷行事として行われる追儺は、基本的に疫鬼を追却しながら練り歩くものですので、踊りはしません。しかし、中国で民間習俗として行われている場合の儺の場合は、舞踊を伴うものになってゆきます。いわゆる儺戯ですが、近年中国でも少なくなってはきている…
例えば、仙台市の郡山遺跡穵期官衙施設です。時代としては7世紀半ばから末年の施設で、すなわち阿倍比羅夫の東北経略とほぼ同時期ということになります。規模的には律令制下の郡衙に近いものですが、後の陸奥国府の前身のようなもので、当時のヤマト王権に…
中国的な皇帝は、四方に北狄・東夷・南蛮・西戎の異民族を抱え、これを徳治によって文明化してゆく建前を持っていました。いいかえれば、蛮族を従えている者こそが皇帝だったのです。倭は、中国や朝鮮諸国に対してそうした建前を作り出すため、蝦夷や隼人と…
当時の国際情勢のなかで、中国化しなければ諸国との競合のなかで置いてゆかれてしまう、との危機感が強かったものと思われます。その点、ある意味では、現在よりもよほど朝鮮諸国、中国と密接に結びついた政治意識のなかで、王朝が経営されていたものと思わ…
律令の規定では、戸籍は諸国において3部作成され、それぞれ当国、民部省、中務省に保管されました。これらの官司が整備されていなかった天智朝段階で、どこに保管されていたかは分かりませんが、恐らくは近江朝廷のどこかに管理されていたのでしょう。永久…
百済王家の子孫を標榜する人々がいます。日本に人質として送られてきていた百済義慈王の子息のうち、豊璋は復興百済王朝の王となり、白村江の戦いの後に唐に捕縛され流罪となりますが、日本に残った禅広王が「百済王」を賜姓され百済王氏の始祖となります。…
まったく見当がつきませんが、新羅との連合軍で攻めてくる形となれば、かなり危機的であったと思います。朝鮮半島に近い九州や中国地方、北陸地方などに拠点が作られれば、長期にわたる戦闘になった可能性があります。当時の政府が実際に「リアルな」危機感…
一般的な説明の仕方としては、外敵の存在を強調することで国内の分裂をまとめる、ということです。明治の征韓論もしかりですが、ナチスのヘルマン・ゲーリングなどは、「国民は戦争を望まない。しかし決めるのは指導者で、国民を引きずり込むのは実に簡単だ…
蘇我氏は渡来系氏族を束ねている立場ですので、親百済的でなかったというわけではありません。実際、蘇我氏の建立した飛鳥寺は、百済の王興寺との共通点が多く、実際に百済からの技術者が渡来して造営したものと想定されています。よって問題は、なぜ斉明王…
乙巳の変ののちは、大王位継承をめぐってやや悶着のあったらしいことが、『書紀』に語られています。皇極は当初、位を中大兄に譲ろうとしますが、「年長の有資格者として古人大兄・軽皇子がいる」との鎌足の助言を受けた中大兄は、これを辞退します。古人大…
講義でもお話ししましたが、蘇我氏はほぼ山背大兄を後援しており、田村皇子とは政治的に対立していました。そのなかで蝦夷が、朝廷を構成する他の派閥との協調を保つべく、田村派に妥協したのです。その結果蘇我氏内に紛争が生じたため、入鹿は山背大兄を排…
蘇我馬子と同時代の王族で、推古大王と密接な関係にあり、政治を主導する説得力のあったひとが、厩戸王以外にいなかったのでしょう。また彼は、法隆寺をはじめとして、王族としては初めて本格的な崇仏を行っていましたので、仏教界においてかなり早くから尊…
「個人の感想で歴史をみても仕方ない」という発言をしましたっけ。記憶にないのですが、誤解を与えるような説明をしたのでしょうね。『ヒストリア』に関して批判したのは、『日本書紀』の記述とそれから考察される「史実」、里中満智子さんのマンガとが、ご…
美術館でも構いませんが、歴史学のレポートですので、歴史的視点で書いてくださいね。
別の授業ですので、1本では困ります。ただし、1つの展示を別々の観点からみて、2つのレポートにするのなら「アリ」でしょうか。
うーん、武道に真理があるなんていいましたかね。もしいったとすれば、それを扱う人たちの内的心理についてでしょう。ぼくはポストモダン論者ですので、唯一絶対の真理など最初から否定しています。真理は指向性としては仮構されるが、実体的なものではない…
王朝交替における五行の意味づけは、かなり政治的・恣意的なものです。主に、これから行おうとしている革命、あるいは新たに成立した王朝を正当化するために、わざわざこの論理に当てはめて作られるのです。
すでに以前のプリントで史料を掲げておきましたが、『論衡』以前に、戦国時代末期の睡虎地秦簡「日書」甲種や、『礼記』に桃の弓が出てきます。また、『古事記』黄泉国神話は古墳の思想を背景に形成されていると考えられますが、当時の古墳は中国や朝鮮から…
赤は元来マージナルな、両義性を持つ色です。神聖性を表すものとして辟邪の能力も期待されますが、逆に気味悪がられることもある。方相氏の赤い喪は、神社の鳥居、寺院の欄干、地蔵の前掛けなどと同じく辟邪の機能を示しています。赤鬼は憤怒のイメージでし…
古代・中世は、現在より、「みえないもの」に対する想像力、信頼性が高かったものと思われます。いわゆる神仏も、像としては存在していたりしますが、その働きは肉眼では捉えられない。けれども確かにある。そもそも日本列島の神祇信仰は、ものごとを生成す…
『周礼』自体が実態的ではないのでよく分からないのですが、確かに保氏・媒氏・射鳥氏など「氏」の付く官職名が多く、恐らくはその役割を担った氏族の名称が使用されたもの想定されます。なお、古代日本では、宮中で宿直・警護などを担った大舎人から、体格…
直接的には繋がっていません。追儺は追儺として、宮廷祭祀のひとつとして制度的に導入されました。「食唐鬼木簡」に使用された呪言は追儺との繋がりのなかで作られたものですが、こちらは疫病流行に対する防御策として、恐らくは何らかの医書に出ていた情報…
恐らく、竹簡に夢の内容を筆録して保管しておき、これを奏上するものと思われます。東アジアにおける歴史叙述は、殷代の骨卜・亀卜において、王の一挙手一投足について占断し、その結果を記録することからスタートしました。そのいわゆる「甲骨卜辞」のなか…