アジア・日本史系概説I(19春)

〈偉大な人物の墓〉は、古代には大きく意味をもって形成されている印象がありますが、ピラミッドや古墳以外で、意味のある形の墳墓はありますか?

ちょっと質問の意味が取りにくいのですが、中国の始皇帝陵なども、広大な墓域にピラミッドのような墳丘が造営されていますね。日本の古墳では、前方後円型以外に、恐らくは仏教思想などに基づくと考えられる陵墓の八角墳、天円地方の思想に基づくと思われる…

古墳時代は寒冷期であったことが王権の出現に結びついたとありましたが、では仮に温暖期であったとしたらどうでしょうか?

この「if」はなかなか難しいですね。かつては弥生から古墳にかけての変化は、まさに温暖期の出来事として説明されていました。単純に、稲米の収穫の増大→余剰生産物の増加→貧富の拡大→富者の権力拡大→突出した首長の誕生→王の出現、と理解していたわけです。…

大王は、東国から九州までの領域を支配する際、中央から地方への意思伝達をどのように行ったのでしょうか?

授業で紹介した稲荷山古墳出土鉄剣銘にしろ、江田船山古墳出土大刀銘にしろ、地方の有力者が、王権の職務を世襲的に担っていたことを伝えています。また、杖刀人にしろ典曹にしろ、ワカタケル大王の「斯鬼宮」へ出仕する役職でした。すなわち、東国からも九…

武が劉宋の順帝へ奉献した上表文において求めた役職のうち、なぜ百済の諸軍事が除かれたのでしょうか?

『宋書』夷蛮伝によれば、百済はすでに、東晋末期の義煕 12年(416)、「使時節、都督、百済諸軍事、鎮東将軍、百済王」の称号を得ています。これは基本的に劉宋期にも踏襲され、以降毎年献物をもって朝貢したとのこと。百済は、倭以前に宋と冊封関係にあっ…

河内地域の古墳群が世界文化遺産に登録されたことについて、どうお考えですか?

河内の古墳群に限らず、まず陵墓に選定されている古墳については、その学術調査の可能性について、長く宮内庁と歴史・考古関係の学会とが折衝を続けてきた歴史があります。その結果として、これまで立ち入りさえ許されなかった場所への踏査が許可されたり、…

ヤマトが東アジア的な政治を行っていたという考えは、後世にその種の史料を解読できるようになってから生まれたものと思うが、古墳時代の当時、外国の文献を解読できる人や、外国との交流を図れる人は存在したのか?

「東アジア的な政治」というのは、劉宋に対して朝貢していたこと、朝鮮三国と競合していたことでしょうか。もしそうならば、授業でもお話ししましたように、これは後世の評価ではなく、同時代的な事実です。倭王武の上表文は、『宋書』列伝/夷蛮伝の掲載で…

ヤマト王権が同盟関係を結んでいた東限といえるのは、どのあたりまでなのでしょうか?

前方後円墳の北端は、岩手県胆沢郡胆沢町の角塚古墳(6c初、古墳後期)で、全長約45メートルの規模です。同時期の畿内大王墓、継体天皇陵とも推測される今城塚古墳が全長約190メートルなので、1/4ほどの較差となります。東北の場合、角塚古墳以南には、約70…

神=人というのは、神が降ったのでしょうか、人が上がったのでしょうか?

面白い質問ですね。なかなか回答が難しいのですが、必ずしも上下の地位関係ではなく、質的に近づいたということができるでしょう。縄文時代の終わり頃には、授業でも触れたように、祖先らしきものへの信仰が始まっていました。後ほどまた扱いますが、縄文時…

日本以外に、府官制で用いるような幕府を開いた国はあったのでしょうか?

朝鮮三国は、倭と競合して劉宋に将軍職を求めており、やはり『宋書』列伝/夷蛮伝に、高句麗王は征東大将軍、百済王は鎮東将軍に叙任されていることが確認できます。つまり、高句麗も百済も、そしてヤマト王権も、劉宋のレベルでみると〈幕府〉なのです。な…

古墳と墳丘墓の境目は何ですか?

埋葬施設を、土砂・石材・木材などによって丘陵を築き、表現しているのが墳丘墓です。その意味では、古墳も墳丘墓の一種といえます。しかし、また別の区分の仕方では、弥生時代以前の墳丘墓をそのままに呼び、当時の知識・技術、政治性・社会性・経済性・宗…

ヤマト王権の大王として評価された「実力」とは、武力、経済力、政治力、宗教力などのうち、どのような力だったのでしょうか?

時代のそれぞれの局面において、〈実力〉の意味するところは異なっていたのではないかと思われます。しかし、経済力、軍事力、あるいは祭祀などを通じた呪術的能力、それらは最終的には政治力に収斂されてゆくのでしょう。百舌鳥古墳群、古市古墳群を形成し…

王権が近畿でなければならないのは分かったが、なぜ奈良盆地だったのだろうか。大阪平野のほうが、四方に開かれていたのではないか?

弥生〜古墳移行期の大阪平野は、未だ大半が淡水湖の河内湖(草香江)か、もしくは大和川水系、淀川水系から流れ込む水により低湿地化していました。河内の古墳グループは、いずれもこのような低地が丘陵にかかる高燥な地帯に存在しており、渡来系の人びとの…

邪馬台国の位置について、さまざまな地図をもとに『魏志倭人伝』の記述を検証する作業が行われていますが、当時の人々の地理的感覚は正確ではなかったのでしょうか?

いわゆる『魏志倭人伝』の記述は、他に比較すべき同時代史料のない孤立したものです。それゆえに、一層厳密な史料批判が必要なわけですが、これまでは逆に、孤立しているがゆえにその記述に縛られてしまう、ということが多くありました。『倭人伝』の記述を…

稲作について、直播き→田植え、湿田→乾田といった変化は、いつ何が原因で起きたのでしょうか?

近年の菊地有希子氏による栽培実験データでは、直播きよりも移植栽培のほうが、移植密度が高いほど収穫量が多くなるとの結果を示しています。これを念頭に置いて、関東近辺の弥生集落の食生活における米食の割合を考えてみると、弥生中期後葉の埼玉県熊谷市…

遺物や遺跡から得られる情報で研究するのは、考古学に属することですか、歴史学に属することですか?

歴史学は、主に文献資料(文字で書かれた記録)=史料を素材に、過去について追究します。考古学は、文字記録がない時代も含めて、発掘によって確認された遺跡・遺物を通じて、過去を追究してゆきます。よって、質問の答えは「考古学」です。ただし、同学問…

花粉分析の方法によって、正確に過去の気温が分かるとは思えません。どのような科学的根拠があって、使用されているのでしょうか?

授業でもお話ししたとおり、古気温曲線を構築するための花粉分析は、過去の正確な気温を算出するためのものではありません。1年ごとの相対的な変化が分かればよい、という程度のものです。例えば、尾瀬沼という限定的空間の内部であれば、沼地の滞留によっ…

B.C.1c頃には銅矛や銅鐸、銅剣の文化圏にあった出雲や吉備が、A.D.2cには墳丘墓の祭祀に移行してゆくのは、近畿や北九州から独立し、独自の文化を営んでいったからといえるのだろうか?

もともと、北九州と近畿という大きな2つの政治グループに挟まれ、その影響下にあったのが出雲や吉備です。しかし、日本海側から独自に朝鮮半島の人、モノ、情報を輸入できたこともあり、次第にそれらへの依存から脱して、独自の方向へ進み始めます。その際…

そもそもなぜ日本では、米が政治に絡むようになっていったのでしょうか?

この問題については、いずれテーマ別解説のところで詳述するつもりですが、まず灌漑稲作農耕が、いわば階層化社会・戦争・金属器、関連する儀式・祭祀などが複雑に絡み合った、総合的な文化として将来されたことが大きいと思います。授業でもお話ししたとお…

魏が邪馬台国を重視したのは、何のためだったのでしょうか?

中国史においては、群雄割拠の時代によく採られる外交政策として、「遠交近攻」策があります。文字どおり、遠国と誼を結んで近国を攻撃する、というものです。三国時代後半の魏においては、まずは頻繁に「北伐」を仕掛けてくる諸葛亮の蜀、そして東シナ海の…

首長と王の相違は何ですか?

弥生時代には文献資料が存在しませんので(漢籍以外)、想定によるところも多いのですが、基本的には、ピラミッド構造の階層社会をある程度実現した集落単位のリーダーを首長、幾つかの集落を束ねる広域のリーダーを王、と読んでいます。王のなかでも、各地…

燕の二枚舌外交の詳細について教えて下さい。

燕国における公孫淵の政権は、太和2年(228)、叔父の恭の地位を簒奪することによって始まっています。父親の康の代には、朝鮮半島の楽浪郡の南に帯方郡を設置し、西は烏恒、東は高句麗・扶余、南は遼東、山東に及ぶまでの一大勢力圏を築き上げていました。…

弥生時代に農耕が進んでゆくうえで、必ずしもすべての土地が農耕に向いていたわけではないと思う。そうしたところには、共同体は形成されなかったのか?

重要な質問です。まず、原始的な農耕の痕跡が認められるものの、基本的には狩猟採集社会であった縄文の集落は、水辺と山麓・森林地域を往来しやすいような台地・丘陵上に営まれるのが一般的でした。また縄文の人びとは、獲物を追って、比較的高地の山々にも…

王権が成立したのが3c半〜4c後半と、中国に比べて遥かに遅いのに、日本はなぜ独立を維持できたのでしょうか?

いろいろ複雑な要因があるとは思いますが、まずは地理的な条件でしょうね。中国王権にとって、どのような地勢の島で、どのような産物(農作物から鉱物まで)があり、どのような国や共同体が存在し、交通することがどれほどの利益になるかが正確に想定されな…

卑弥呼の前には男王たちが何人もいたと思うのですが、なぜ女王が突然現れ、また注目されたのでしょうか?

よい質問ですが、なかなか難しいですね。ひとついえるのは、恐らく女王は卑弥呼ひとりではなく、その前にも存在した可能性が高い、ということです。清家章氏らの研究によると、弥生〜古墳時代にかけての首長墓、およびそれ以下の階層の埋納人骨を調べてみる…

弥生時代初期の水田開発に際して行われた森林伐採は、青銅器によって行われたのでしょうか、石器によって行われたのでしょうか?

正確には分からないことも多いのですが、樹木の伐採は、実は縄文時代の石斧でも充分に可能なのです。こちらのページでみられるように、実験でも確認されています。縄文時代の回で写真をおみせしたように、縄文前期の三内丸山遺跡の時点で、すでに栗の大径木…

青銅器は、最初と最後では、なぜ使用の仕方に相違が生じたのでしょうか? 長く使われたものには霊魂が宿るという、付喪神的な発想でしょうか? / 青銅器が実用的なものから祭器的なものへ変化するのは、その地域が裕福になったためですか?

青銅器は、弥生時代の日本列島においては極めて貴重なものでしたので、実用品が半島から将来されたときにも、その価値は木材や石材を用いた道具類より高く、平準化された共同体においては、全体で共有する宝器的位置づけ、階層化された社会においては、一部…

なぜ、時代によって墓の形式が変わるのでしょうか?

現代の日本でもそうですが、墓が必ずしも個人のみによって作られるものではなく、社会的な産物であるため、時代の移り変わりを映す鏡になっているためです。例えば現在では、かつて近代の家制度を反映して主流であった家族墓に対して個人墓が増え、また樹木…

当時の人々は、大陸から来た人々と、どのように会話をしていたのでしょうか?

玄界灘から日本海南側までを挟んだ九州〜山陰地方と、朝鮮半島南部との間には、古くから海上交通を介して交流がありました。北九州のみならず、山陰から北陸地域にかけての弥生遺跡からも、半島から将来されたと考えられる遺物が多く出土しています。例えば…

縄文時代の祖先信仰も、中国の影響を受けているのかと思っていたのですが、自然発生したものなのでしょうか?

これについては、日本列島側に史料になりうるものが残っていないので、何ともいえません。しかし縄文時代の場合、こうした変化が顕著にみられるのは主に関東以北、東北地方なので、中国の直接的影響下にはないものと思われます。東シナ海を挟み、中国の江南…

環状列石について、最終的に人骨のない場になってゆくのは、やはり人骨への忌避が持続しているからでは?

授業ではお話ししませんでしたが、縄文中期、巨大集落が一度解散してまた再集合するような場合に、幾つかの人骨を合葬した再葬墓が登場します(茨城県中妻貝塚、千葉県祇園原貝塚、千葉県宮本台遺跡など)。分散した「家」の象徴である祖先=人骨を、人びと…