2019-05-01から1ヶ月間の記事一覧

〈偉大な人物の墓〉は、古代には大きく意味をもって形成されている印象がありますが、ピラミッドや古墳以外で、意味のある形の墳墓はありますか?

ちょっと質問の意味が取りにくいのですが、中国の始皇帝陵なども、広大な墓域にピラミッドのような墳丘が造営されていますね。日本の古墳では、前方後円型以外に、恐らくは仏教思想などに基づくと考えられる陵墓の八角墳、天円地方の思想に基づくと思われる…

倭国は、高句麗の好太王に敗れた歴史があるように、軍事については朝鮮半島諸国を倒す力はなかったように思います。中国にとって、戦力になるほどの武力を持っていたのでしょうか?

4〜5世紀の倭国=ヤマト王権が、実質的にどの程度の武力を有していたのかは、漢籍、朝鮮半島の碑文等に断片的な記述を確認できるばかりで、明確ではありません。ただし当時の王権が、鉄の供給地として重視していた半島南部における利権を維持するため、何…

なぜ征夷大将軍のように、東を攻める将軍は優遇されたのですか。九州を平定するなど、西を攻める将軍には、どの程度の権限があったのですか。

府官制の問題でしょうか。将軍の場合、対処すべき事案によって与えられる権限に増減がありますが、単に制圧先が西か東かだけで待遇が変わるということはありません。古代から中世にかけての日本の場合、すでに九州については大宰府が置かれ制圧がある程度完…

当時の人々は、大陸から来た人々と、どのように会話をしていたのでしょうか?

玄界灘から日本海南側までを挟んだ九州〜山陰地方と、朝鮮半島南部との間には、古くから海上交通を介して交流がありました。北九州のみならず、山陰から北陸地域にかけての弥生遺跡からも、半島から将来されたと考えられる遺物が多く出土しています。例えば…

なぜ、時代によって墓の形式が変わるのでしょうか?

現代の日本でもそうですが、墓が必ずしも個人のみによって作られるものではなく、社会的な産物であるため、時代の移り変わりを映す鏡になっているためです。例えば現在では、かつて近代の家制度を反映して主流であった家族墓に対して個人墓が増え、また樹木…

青銅器は、最初と最後では、なぜ使用の仕方に相違が生じたのでしょうか? 長く使われたものには霊魂が宿るという、付喪神的な発想でしょうか? / 青銅器が実用的なものから祭器的なものへ変化するのは、その地域が裕福になったためですか?

青銅器は、弥生時代の日本列島においては極めて貴重なものでしたので、実用品が半島から将来されたときにも、その価値は木材や石材を用いた道具類より高く、平準化された共同体においては、全体で共有する宝器的位置づけ、階層化された社会においては、一部…

弥生時代初期の水田開発に際して行われた森林伐採は、青銅器によって行われたのでしょうか、石器によって行われたのでしょうか?

正確には分からないことも多いのですが、樹木の伐採は、実は縄文時代の石斧でも充分に可能なのです。こちらのページでみられるように、実験でも確認されています。縄文時代の回で写真をおみせしたように、縄文前期の三内丸山遺跡の時点で、すでに栗の大径木…

卑弥呼の前には男王たちが何人もいたと思うのですが、なぜ女王が突然現れ、また注目されたのでしょうか?

よい質問ですが、なかなか難しいですね。ひとついえるのは、恐らく女王は卑弥呼ひとりではなく、その前にも存在した可能性が高い、ということです。清家章氏らの研究によると、弥生〜古墳時代にかけての首長墓、およびそれ以下の階層の埋納人骨を調べてみる…

王権が成立したのが3c半〜4c後半と、中国に比べて遥かに遅いのに、日本はなぜ独立を維持できたのでしょうか?

いろいろ複雑な要因があるとは思いますが、まずは地理的な条件でしょうね。中国王権にとって、どのような地勢の島で、どのような産物(農作物から鉱物まで)があり、どのような国や共同体が存在し、交通することがどれほどの利益になるかが正確に想定されな…

弥生時代に農耕が進んでゆくうえで、必ずしもすべての土地が農耕に向いていたわけではないと思う。そうしたところには、共同体は形成されなかったのか?

重要な質問です。まず、原始的な農耕の痕跡が認められるものの、基本的には狩猟採集社会であった縄文の集落は、水辺と山麓・森林地域を往来しやすいような台地・丘陵上に営まれるのが一般的でした。また縄文の人びとは、獲物を追って、比較的高地の山々にも…

燕の二枚舌外交の詳細について教えて下さい。

燕国における公孫淵の政権は、太和2年(228)、叔父の恭の地位を簒奪することによって始まっています。父親の康の代には、朝鮮半島の楽浪郡の南に帯方郡を設置し、西は烏恒、東は高句麗・扶余、南は遼東、山東に及ぶまでの一大勢力圏を築き上げていました。…

首長と王の相違は何ですか?

弥生時代には文献資料が存在しませんので(漢籍以外)、想定によるところも多いのですが、基本的には、ピラミッド構造の階層社会をある程度実現した集落単位のリーダーを首長、幾つかの集落を束ねる広域のリーダーを王、と読んでいます。王のなかでも、各地…

魏が邪馬台国を重視したのは、何のためだったのでしょうか?

中国史においては、群雄割拠の時代によく採られる外交政策として、「遠交近攻」策があります。文字どおり、遠国と誼を結んで近国を攻撃する、というものです。三国時代後半の魏においては、まずは頻繁に「北伐」を仕掛けてくる諸葛亮の蜀、そして東シナ海の…

そもそもなぜ日本では、米が政治に絡むようになっていったのでしょうか?

この問題については、いずれテーマ別解説のところで詳述するつもりですが、まず灌漑稲作農耕が、いわば階層化社会・戦争・金属器、関連する儀式・祭祀などが複雑に絡み合った、総合的な文化として将来されたことが大きいと思います。授業でもお話ししたとお…

B.C.1c頃には銅矛や銅鐸、銅剣の文化圏にあった出雲や吉備が、A.D.2cには墳丘墓の祭祀に移行してゆくのは、近畿や北九州から独立し、独自の文化を営んでいったからといえるのだろうか?

もともと、北九州と近畿という大きな2つの政治グループに挟まれ、その影響下にあったのが出雲や吉備です。しかし、日本海側から独自に朝鮮半島の人、モノ、情報を輸入できたこともあり、次第にそれらへの依存から脱して、独自の方向へ進み始めます。その際…

花粉分析の方法によって、正確に過去の気温が分かるとは思えません。どのような科学的根拠があって、使用されているのでしょうか?

授業でもお話ししたとおり、古気温曲線を構築するための花粉分析は、過去の正確な気温を算出するためのものではありません。1年ごとの相対的な変化が分かればよい、という程度のものです。例えば、尾瀬沼という限定的空間の内部であれば、沼地の滞留によっ…

遺物や遺跡から得られる情報で研究するのは、考古学に属することですか、歴史学に属することですか?

歴史学は、主に文献資料(文字で書かれた記録)=史料を素材に、過去について追究します。考古学は、文字記録がない時代も含めて、発掘によって確認された遺跡・遺物を通じて、過去を追究してゆきます。よって、質問の答えは「考古学」です。ただし、同学問…

人間は何がきっかけで銅などの資源をみつけ、それを熱してモノを作れることを見出したのでしょうか?

これは史料が残っていないわけで、まったくの想像でしかないわけですが、火山の噴火や山火事などの際に、金属の溶融現象が見出されたのだろうと考えられています。そこから、いかなる石が溶融によって器物に仮構できるのか、すなわち金属関係の鉱石が種々発…

稲作について、直播き→田植え、湿田→乾田といった変化は、いつ何が原因で起きたのでしょうか?

近年の菊地有希子氏による栽培実験データでは、直播きよりも移植栽培のほうが、移植密度が高いほど収穫量が多くなるとの結果を示しています。これを念頭に置いて、関東近辺の弥生集落の食生活における米食の割合を考えてみると、弥生中期後葉の埼玉県熊谷市…

邪馬台国の位置について、さまざまな地図をもとに『魏志倭人伝』の記述を検証する作業が行われていますが、当時の人々の地理的感覚は正確ではなかったのでしょうか?

いわゆる『魏志倭人伝』の記述は、他に比較すべき同時代史料のない孤立したものです。それゆえに、一層厳密な史料批判が必要なわけですが、これまでは逆に、孤立しているがゆえにその記述に縛られてしまう、ということが多くありました。『倭人伝』の記述を…

縄文における祖先の発生は、人と人との繋がりに対する意識が強くなったものとも考えられるが、そのなかで男女間の差違はあったのだろうか?

うーん、難しいですねえ、いい質問です。いま、手許に環状集落、墓地出土の遺骨に関する、性別が分かるデータがないのですが、〈祖先〉として扱われるものに性別の偏差があるかどうかは、確かに考えてみる必要はありますね。ただし、縄文時代の文化的象徴を…

墓に対する観念が時代によって変わる、その契機が何であったのか知りたい。

ぼくも気になるところですが、大雑把にどうこう考えるより、個別に検討してゆくしかないでしょうねえ。ひとついえるのは、生死や身体に関わるような、われわれがそれほど急激に変化しない、場合によっては何百年、何千年もあまり変わらないと考えている心性…

弥生時代の初期に大陸や半島からやって来た人びとと、縄文社会の人びとが平和的に融合した、その具体相を知りたい。

例えば、福岡市博多区の板付遺跡(縄文晩期〜弥生早期)からは、縄文時代の突帯文土器(夜臼式土器)と、朝鮮系の無文土器、この両方の特徴を持った土器=板付式土器(突帯文と無文の表面を持つ)が出土しています。すなわち、同遺跡にあった集落では、朝鮮…

世界史では文明の転換点のひとつは「鉄」ですが、日本史の場合は何でしょうか。土器ですか?

縄文土器に匹敵する土器は、同時代の世界のどこにも存在しないので、確かに画期だということはできるでしょう。それ以降の弥生土器、須恵器、土師器など、列島的な陶器文化の起源をなす、という点においても重要です。また、縄文土器が青銅器や鉄器と異なる…

縄文土器の文様は、単なる意匠でしょうか、それとも祭祀や呪術などの意味があるのですか?

縄文時代の紋様のうち、押型文、貝殻沈線文、条痕文などの紋様は、まずは一般的な意味でのデザインとして考えておくべきでしょう。何からの意味はあったのかもしれませんが、いまそれを一概に想定することはできません。しかし中期の極めて立体的な造型の土…

定住が災害を生むとの話は一理あるが、これほど災害が多い国で定住が進んでいることにも、何か意味があると思う。

ひとつ考えておかねばならないことは、現代社会が本当に定住社会なのか、定住社会とはそもそもどのような状態をいうのか、ということです。これは、考古学者・人類学者の西田正規さんが指摘していることなのですが、よくよく考えてみると、現代もよほど流動…

堅果が食料として見出された契機は何だったのだろう?

難しいですねえ。これは想像でしかありませんが、やはり落葉広葉樹林や照葉樹林のなかで、動物たちが堅果類を食べているのを目撃したのが、主な契機でしょう。しかし、生の状態で食べるのは堅いし、美味しくないし、消化できずに腹を壊してしまう場合もある…

大湯遺跡の土偶は、なぜ女性がモチーフであると分かるのだろうか? 人間かどうかすら怪しい。

縄文時代の土偶は、草創期から晩期までの1万年ほどにわたって、本当に多様な形状、大きさのものが発見されています。それゆえにその機能、役割についても、一括りに定義するのではなく、時代・地域による多様性を認めたほうがよい、という見解が最近強くな…

移住と災害との関係について、移動生活が日常的ならば土地への知識もないはずで、災害発生時の避難なども、かえって難しかったのではないか?

移動生活者は、変化に富んだ環境のなかを水や食料を探し、危険を避けながら移動してゆくので、そもそも、定住生活者に比べ自然環境の変化、気候や地形から得られる情報に対して敏感なのです。前もって避けられる危険にはあえて近寄らない、そうした点も含め…

卜辞はひび割れの結果で占うとのことでしたが、担当するシャーマンによって結果に相違はあるのでしょうか? / 熱卜は何らかの専門集団が担当したのだろうか?

殷代の熱卜については、かなりシステマチックに整備された状態で運営されたことが分かっています。まず卜占を行う貞人たちですが、やはり専門技術者集団で、卜府と仮称される機関に所属していました。そこへは牛の肩甲骨、亀甲などが支配領域の各所から届け…