日本史概説 I(11春)

古代の神話が、後の昔話等々に影響を与えている事例は、桃太郎や三枚のお札の他にもあるのでしょうか? また、何かよい参考文献があったら教えてください。

結局、神話はさまざまなモチーフを変換して複数の物語を構築してゆきますので、世界中でよく似たモチーフを用いていたり、同じような内容の物語が語られる場合が出てきます。それらは、拡大と変質を繰り返しつつ特定の地域で伝承されていったり、書承の形で…

『古事記』の黄泉国神話で、イザナキが「後ろ手に剣を振る」との仕草が出てきますが、何か呪術的な意味があるのでしょうか。

現実的に考えれば、後ろから追いすがってくる黄泉の悪霊たちを却ける動作と受け取れます。しかし、背後は人間にとって最も無防備な部位のひとつであり、確かに呪術的な武装も必要です。「振る」という動作については、辟邪や神招きの「比礼を振る」呪術が知…

なぜ「桃」は聖なる果実と考えられたのでしょうか。見た目の美しさや、温暖な場所で育つなどのことが関係するのですか?

諸説ありますが、やはり女性象徴であるという考え方がもっとも分かりやすいでしょう。生命が生まれ出づるところであり、それゆえに強い生命エネルギーを持って、辟邪や不老長寿の効能があるとみなされた。『春秋左氏伝』や『礼記』などのほか、戦国秦の出土…

事戸度しなどの詞章については、中国の死者観が日本に伝わったのだと考えてよいのですか。 / 少数民族と日本との関係はどのようなものだったのでしょう。また、紹介された聞き書きと『古事記』とは、時間軸上ではどのような関係にありますか。 / 日本の黄泉国には、よいものも悪いものも同じ場所にゆくと考えられていたのですか。天国や地獄といった観念が生まれてくるのはいつですか。

恐らく、東アジアの極めて基層的な、それゆえに共通性の高い文化要素のひとつなのだと思われます。必ずしも、伝播によってある場所からある場所へ波及したと考えなくてもよいでしょう。私が祭祀の調査に訪れた納西族では、穢れや悪鬼に対しても「指路」を説…

横穴式石室の導入による死者観・他界観の変化については、遺体をみることが増えたという事実のほかに何か要因はあったのでしょうか。

横穴式石室は、その物理的構造だけでなく、一連の儀礼や思想を伴って中国―朝鮮半島から輸入されてきたと考えられます。中国では、漢代に王族墓・貴族墓の内部構造が巨大化し、生活空間としての体裁が整備されてきました。志怪小説などのなかにも、地下を死者…

そもそも、墳頂から造り出しなどへ祭祀の場が移動したのはなぜなのでしょう。

きちんとした説明があるわけではありませんが、私は、前回お話しした「山の神聖視」と同じ情況が起こったのではないかと考えています。すなわち、墳頂が神聖化され「禁足地」になったということです。前期は遺体に強い両義性を認め、崇めると同時に封じ込め…

古墳が鮮やかになったのは、黄色や青色に何かパワーを認めていたからですか?

装飾古墳自体が朝鮮半島から将来されたものなので、当初はあくまでも意匠の問題であったと思われます。しかし、中国の陰陽五行説(木・火・土・金・水の五元素にあらゆるモノ・現象を配当し、その生成関係や対立関係から世界のありようを説明する考え方)で…

古墳の施朱の顔料は、何からできているのですか。

以前の繰り返しになりますが、もう一度書いておきます。古代の赤色顔料には、主に2つの種類があります。ひとつは酸化鉄系のベンガラ(弁柄)で、いわゆる朱を指します。インドのベンガル地方の原産なのでこう呼称されるようです。もうひとつは硫化水銀系の…

人物埴輪は、すべて同じような無表情なのでしょうか。笑ったり泣いたりしているものはないのですか?

埼玉県には、本庄や長瀞で笑う埴輪が出土しています。現代では自然な感情の表出も、古代には呪術的な力があると信じられていたようで、例えば授業でお話しした哭泣も死者の魂を呼び寄せる効果などを期待されたわけです。その観点から笑う埴輪をみると、これ…

人物埴輪の種類の多さや役割に驚きました。これは、中国の兵馬俑などと何か関連性はあるのですか?

直接的な繋がりは実証できませんが、墳墓に人物像を配するという発想は同じで、これはやはり列島が輸入した考え方である可能性があります。ただし、朝鮮半島の墳墓などと比較してみると、日本は「土人形」が特別に発達しているような印象があります。弥生時…

以前、どこかで古墳を調べたら、「天皇のルーツは韓国にあることがわかった」というような話を聞きました。そんな古墳は本当に存在しますか。

恐らく前方後円墳が朝鮮半島にあるという話で、騎馬民族説と連結させて考えたものでしょう。もちろん大王の陵墓も前方後円墳ですが、注目しなければいけないのは、大王以外の墳墓にもその形式が用いられているという点です。規模の差こそありますが、前方後…

古墳時代に火葬はあったのですか?

後期になりますと、渡来系氏族の周辺でみられるようになります。古墳時代の環境の項目でお話しした陶邑からも、登り窯を火葬に用いた痕跡がみつかっていますし、遺灰を納めた石棺を蔵する古墳も出土しています。

古墳における首長の喪葬に際し、多くの殉死者が生き埋めにされたとの話を聞いたことがあるのですが、思想の変化でそうした風習も消えたのでしょうか?

『日本書紀』垂仁天皇32年条に、喪葬を管轄した土師氏の祖 野見宿禰が、殉葬の悪弊を止めて埴輪を始めたとの伝承が出てきます。すなわち、土師氏の始祖神話、埴輪の起源神話に当たるものです。しかし注意しなければならないのは、日本の古墳からは、そのよう…

似たような神話が世界中に存在するということは、人間の自然や未知のものに対する思想の発達、変化の流れにはある程度の法則があるのでしょうか。

法則としてしまうのはどうかと思いますが、衣食住の根底的パターンは全人類に共通しているのですから、ある程度類似の思想・思考や神話が生じることは、むしろ当たり前なのだと思います。問題は、その共通性を時代や環境との関係から「固有性」に転換するこ…

どうして昔から、人は死んだ先のことを気にするのでしょう?

深遠な問題ですね。これは、自分にとって大切な誰かが亡くなったときに、自ずとひとつの解答が得られるかも知れません。今は、皆さんへ具体的に回答をするのは控えておきます。

古墳時代が寒冷多雨な気候だったとすると、疫病などは流行らなかったのでしょうか。

流行したと思います。私は、古代の文献に記載される「祟り神」は、古墳寒冷期のなかで形成された宗教思想だと考えていますが(『日本災害史』参照)、それらの記事には、天候不順や飢饉などのほかにやはり疫病の流行が語られています。祟り神の発想のもとに…

古墳を造るために周囲の森や山を切り崩していたとしたら、何か土砂災害のようなものは起こらなかったのでしょうか。 / 当時は植樹などの方法はなかったのでしょうか。また、どのくらいの周期で土地を移動して新たな土地へゆくのでしょうか。

恐らく、そうした災害は各地で頻発していたでしょう。古墳自体にも、築造中の事故や、完成した墳丘が土砂崩れを起こすこともあったと考えられます。『日本書紀』のなかには、飛鳥京周辺を整備する過程で、各地に土砂崩れや樹木の枯朽などの事態が発生したこ…

古墳の築造は数学などの知識・技術を活かして造られたのですか。それとも、何となくの感覚だけでしょうか。

すでに大陸や半島では、数学的知識を活かして精緻な建築物が築造されていました。古墳についても、見た目の感覚だけでは、ほぼ統一された規格を各地へ頒下してゆくことはできません。渡来系の人々の知識・技術を活用して、これまで列島の人々がみることもで…

古墳はいつ頃まで神聖な場所と考えられていたのでしょう。 / 現在森林のようになっている古墳は、古代から人の手が入っていないと考えていいのでしょうか。 / 前方後円墳などの古墳内は宮内庁により調査不可とされていますが、神聖な場所であるとのほかにどのような理由があるのでしょうか。また、これからこの問題はどうなってゆくのでしょう。

律令国家においては、宮内省の諸陵寮という機関が保護すべき陵墓をリストアップし、人員を配置して管理をしていました。規定を破って領域を侵すものは処罰されましたが、時折、陵墓地域で樹木を伐ったり家畜を放し飼いにしたりすることへの禁令が出ているこ…

古墳は、被葬者をカミとして再生させる舞台だとの説があるとのことですが、すると古墳の数だけカミがいるということでしょうか。 / 中国の神仙思想が将来されていたとすると、当時の日本における「霊」や「祖先」を祀る思想と区別されていたのでしょうか、それとも習合していたのですか。

古代日本はアニミズム、パンセイズムの宗教情況にあったと思われますので、カミが複数存在するという事態はまったく不思議ではありません。問題はむしろ、人がカミになるという情況がどのように承認されたかが問題です。上記の説を唱える人たちは、どうも前…

古墳の形がモニュメントとなってヤマト政権が出現したのではなく、ある規格をもった複数の政権が連立しており、勢力争いを経て最終的にヤマト政権へ吸収されたのでしょうか。 / 古墳の分布図で、前期から後期にかけて地方の古墳の規模などが小さくなってゆきますが、ヤマトの勢力が伸張し地方のそれが衰えたということでしょうか。 / テレビなどで、関東にも大きな政権が存在したとの話をよく耳にしますが、どれくらいの蓋然性があったのでしょうか。

授業でもお話ししましたが、前期〜中期はヤマト王権の勢力の発展、後期はそれとともに、巨大古墳の社会的・政治的需要が希薄化することが、主な理由として挙げられるでしょう。弥生後期の地域的特性を引き継いだ多様な墳丘墓が各地に生まれ、そのなかで、全…

登呂遺跡の消滅は海進によると考えられたそうですが、古墳寒冷期が認められたとすると、実際の消滅の理由は何だったのでしょうか。

やはり、弥生後期の社会の流動化現象のひとつと捉えるべきでしょうね。この時期には、大阪府の池上曽根遺跡など、かつての拠点的な巨大集落が姿を消しています。寒冷化と鉄器の普及に伴う社会変動が、列島内に大きな動揺をもたらしたものでしょう。

出雲の荒神谷遺跡等々の青銅器埋納も、共同体祭祀から首長祭祀への移り変わりのなかで起こったことと考えてよいのでしょうか。

荒神谷の埋納自体は、必ずしも青銅器祭祀の廃絶と関連付けなくてもよいようです。とにかく大量の青銅器を埋納することが、共同体の勢力を誇示することに繋がったのでしょう。しかし、出雲ではそれからしばらくして、中期末頃には青銅器祭祀が廃絶します。問…

「史学史」という学問はあるのでしょうか。

あります。日本では、歴史学の理論・方法論研究自体がなおざりにされる傾向があり、史学史自体も大学者が総括的に行うという「慣習」が存在しますが、近代文化史の領域では若手も積極的に取り組んでいます。近代学問としての歴史学の成立や、民俗学等々との…

宗教の原初形態は、家族内の死者を「祖先の魂」として祀ることで、a)所有の正当性を提示し、b)所有のあり方を安定させるという2つの目的があるそうです。稲作と鉄器の普及によりさらに所有概念は複雑化してくると思いますが、宗教=社会と捉えてもいいのでしょうか?

宗教の原初形態の説明の仕方には、さまざまなモデルがありうると思います。デュルケームは、『分類の未開形態』のなかで、人間の方位カテゴリーの基準となったのはその方面にいる人間集団であると述べていますが、これは、彼が心理学的個人主義との戦いのな…

私の住んでいるところの近く(神奈川西部)にも「真鶴」という地名がありますが、そこにも穂落神の伝承があるのでしょうか。

現在伝わっているかどうかはちゃんと調査していないのですが、鎌倉には鶴岡の地名もありますし、鶴に関連する伝承が周囲に存在した可能性はありますね。現在の依存地名「鶴」には、地形が鶴の翼を拡げた形に似ているなど諸説ありますが、そうした考え方自体…

白・長頚・長脚を必要要素とするなら、穂落神はツルやサギ以外でもよかったのではないでしょうか。 / 白という色は弥生時代から神聖な色だったのでしょうか。だとしたら、それはなぜですか。 / スズメやカラスなどの害獣はどう認識されていたのでしょうか。

私も、穂落神は特定の要素を持っていれば、ツルやサギに限定しなくてもよいだろうと思います。第一、穂落神自体が仮説ですから、そうした見方に束縛されすぎるのも問題です。8〜9世紀の『古語拾遺』という文献に、ホオジロを田における卜占に使ったらしい…

銅鐸の絵画は、当時の人が脚色して描いたという可能性はないのでしょうか。

その可能性はもちろんあります。しかし、単なる落書きから芸術作品に至るまでの現代絵画を鳥瞰しても、そこには時代や社会ごとの特徴や規制が必ず表れてきます。同じような意味で、弥生の土器絵画、銅鐸絵画からも、時代・社会の反映を読み取ることが可能な…

鳥装の人間の描かれた絵が多く紹介されていましたが、実際に女性も司祭として祭祀に参加していたのでしょうか。

ユーラシア大陸には、全般的に、女性が神憑りしてトランス状態のなかで語った言葉を、男性宗教者が日常的な言語に置き直して解説するという宗教文化が存在しました。古代ギリシアのデルポイ神殿でも、神憑りする巫女とその言葉をヘクサメトロンの詩へ綴る神…

古代中国では、青銅器は王や貴族しか使えないものでした。日本も同じなら、すでに弥生前期は階級が分化していたということでしょうか。

講義でもお話ししましたが、弥生時代の青銅器は共同体の所有で、恐らくは稲作に関連して行われたその祭祀は、共同体の祭祀です。弥生の集落には首長の存在が認められ、次第に階級分化が生じていったものと思われますが、あらゆる青銅器を威信財として私有す…