日本史概説 I(14春)

蘇我氏に権力が集中したのは、支配者層が王位継承の安定化を図った結果なのでしょうか。

それは正しい見方かもしれません。『書紀』の描く蘇我逆臣史観は明らかに「冤罪」であり、彼ら自身が当時の王権の中心であったとみてもよいので、その血筋に沿って大王位が継承されてゆくという慣習は、選択としては大きく誤っていなかったのだと思われます…

阿倍氏の話を聞いて、阿倍臣がいちばん力を持っているのではないかという気がしたのですが、実際に権力を握ったのは蘇我や物部、大伴でした。阿倍臣はなぜ権力を得ることができなかったのでしょうか。

あまり人口には膾炙していませんが、やはり阿倍氏も相当な権力を握っているのです。乙巳の変のクーデターの後、左大臣に任命された阿倍内麻呂(または麻呂、倉梯麻呂)は、廟堂の年長者として尊重されたといった言い方をされていますが、精確ではありません…

大伴金村の失脚後、大伴氏は合議制から外されてしまったのですか。 / 外交政策の失敗によって大伴氏の勢力が弱まったのですか、それとも勢力が減退していたために失敗を問われたのですか。

大伴金村が大連になった武烈〜継体期が最盛期ですので、勢力が弱まっていたために批判を受け失脚した、というわけではないと思います。金村の失脚後、大連の地位は物部氏に奪われ、それ以降大伴氏からは輩出されていません。しかし合議制から排除されたわけ…

継体は、「体制を継ぐ」という形式的すぎる名であり、正統とはいいがたく官僚にも信用されていなかったのでは、と高校の先生に習いました。これはただのこじつけでしょうか。

高校日本史では共有されていない知識かもしれませんが、我々が天皇を呼称するときに普通に用いている2字の呼称は、亡くなったあとに付された中国風のおくりな、すなわち漢風諡号というものです。実はこれらは『日本書紀』に記載されておらず、文武・聖武・…

この頃に暦が導入されたとのことですが、それ以前倭には暦はなかったのでしょうか。

より生活に密着した農事暦のようなものは存在した可能性はありますが、文字は存在しませんので、自然環境の季節変化と身体感覚、口承で伝わる記憶・出来事などを繋ぎ合わせたプリミティヴなものであったと思われます。天体の観測に基づき月日を区切ったもの…

儒教をなぜ「教」と呼ぶのでしょうか。中国では「儒家思想」と呼んでいます。

中国では、学問・思想的な面を強調するからでしょうね。しかし、本来は鬼神・祖霊に対する作法を人間世界にも適用したものですので、種々の祭儀を伴う宗教的性格を強く持っています。日本では釈奠をはじめそうした祭儀も受容し、宮中で年中行事として行って…

儒教や仏教などの中国文化を威信財だとすると、武から文への傾向の変化は、より抽象的なものを理解するようになった、日本人の心の成長だということもできますか? / 飛鳥以前にも半島や大陸とやり取りをしていたのに、文のものが流入していなかったのはなぜですか。 / 飛鳥時代に漢字や儒教の導入が図られたとのことですが、日本で漢字を用いるのは飛鳥時代からということですか。

抽象的な文化を受容する態勢ができてきたことは確かでしょうが、それを「発展」とみてしまうのは、いささか近代主義的といえるかもしれません。古墳文化以前の列島の人々の思考・心性が「原始的」であり、儒教や仏教が「進んでいる」というのは、文化の単線…

倭国が武から文への転換を図ったとのことですが、その背景にあった半島の紛争における敗北の連続には、どのような原因があったのでしょうか。

一般的な問題としては、やはり渡海することの物心両面におけるストレス、限界でしょうね。半島へ軍兵を送ることには、物資・人数の点で大きな制約がありますし、言語の問題などを考えると、百済や加羅などの国々と連携して戦うことにも種々の問題が伴う。か…

全体的に父系原理を採る民族が多いように思うのですが、父系/母系のどちらを採るかは、そもそもどのように決定されるのでしょうか。

地域や時代によっても種々の変遷がありますが、日本の場合は基層としては双系制で、中国の影響により、家長層から父系制社会へ移行してゆくことが確認されています。古墳時代の埋葬のあり方方から家族研究を推進する田中良之氏によると、縄文〜古墳前期には…

『古事記』などは、王権の正統性を裏付けるために書かれたと聞きました。キリスト教人間学では、人間は自分に意味づけをするために神話を作る、もしくは作ったと習いました。日本とキリスト教国とは異なりますが、神話に対する価値付けは近いように思えます。どうなのでしょうか。

一口に神話といっても、そこにはさまざまなレベルがあります。家族で語られる父祖の神話、氏族における始祖伝承のようなもの、村落共同体で語られる世界の森羅万象に関する説明、そして国家がその起源を語る政治的なもの。神や祭祀の由来を説いた宗教的なも…

氏族制において、それぞれの氏族は自氏の歴史を神話のような形で語り伝えたとのことですが、どうして事実であることを伝説のような枠に当てはめたのでしょうか。

古代においては、近代科学主義以降の認識のように、神話/歴史が区別されていません。現在でも民族社会などでは、神話や伝説が我々のいう歴史として語り継がれている地域も多くあります。彼らにとっては、それは〈事実〉なのです。またこの段階では、未だ各…

官僚制と氏族制の二重構造の萌芽は雄略朝にあるとのお話でしたが、それはいつまで続くのでしょうか。 / 日本はなぜ中国のように官僚制を実現できなかったのでしょうか。

律令制や官僚制自体、中国の極めて長い王朝・国家の歴史において、独自に生み出されてきたものです。中国は、王朝の支配する領域が極めて大きく、また多様な民族が存在します。地域によって文化も相当に異なっています。それらは氏族制に依存する範疇を超え…

古代の実在が確認されていない天皇にも陵墓がありますが、それはいつ頃作られたものなのでしょうか。

古墳は古墳時代に造営されたものなのですが、どの古墳がどの天皇の陵墓に当たるかは、まず7世紀末、浄御原令の制定に関連して設定されたものと考えられています。『書紀』によれば、持統天皇5年(691)、「先皇、自余王有功者」の陵墓を守衛する陵戸・百姓…

宋王朝はかなり大それた称号を倭へ送っていますが、当時の倭と朝鮮諸国との関係は、派兵などに限定されるのでしょうか。

この「大それた称号」は、倭国王のみに送られたわけではありません。授業でもお話ししたように、朝鮮諸国と獲得を競合していたのです。例えば463年、高句麗王は宋から、「使持節、散騎常侍、督平營二州諸軍事、車騎大將軍、開府儀同三司、高句驪王」の称号を…

現在の日中韓の関係を考えるにあたり、「朝鮮はずっと朝貢国のままだったが、日本は途中で止めた」との言説を聞くことがあります。これはどの程度まで正しいのですか。

上にも述べた雄略の「治天下」を契機とする言説、聖徳太子の「日出る国」国書の解釈などがその根幹をなすのでしょうが、例えば遣唐使などは、日本でそのつもりがあったかどうかはともかく、中国王朝、そして東アジア世界においては朝貢国の使者と位置づけら…

渡来系の人々によって王権が運営されているとのことでしたが、ヤマト王権の人々は、例えば対外的交渉を渡来の人々に任せることについて、抵抗はなかったのでしょうか。

不安や抵抗はあったかもしれませんが、文字や言葉の問題からして、委任せざるをえなかったのが現状でしょう。ただし、渡来系氏族を統括していた葛城、蘇我、あるいは対外交通や対外軍事を担っていた阿倍、物部、紀などのなかには、外国語や外国文化に堪能で…

鉄剣の出土した稲荷山の周辺、すなわち今の関東には、巨大な豪族、強力な政治集団が存在したということでしょうか?

弥生、古墳のときから何度も言及していますが、東国には巨大な政治集団が存在しました。彼らが中央との関係において独立不羈の気風を有していたことは、例えば安閑朝の武蔵国造の乱などに明らかです。『書紀』の記述などを批判的に追ってゆくと、当時の東国…

鉄剣名に刻まれた「治天下」は、中国の「天下」をさらに「治」めるといったニュアンスを感じます。中国を越えようといった意識はあったのでしょうか。 / 中国は、倭王権が中国の制度を「建前」として用いていたことに気付かなかったのでしょうか。

まだ文字の運用について熟練していない倭国のことですから、「治天下」にそれほど大きな自意識を認めることはできないでしょう。「中国的天からの離脱を宣言した」との見方もありますが、あまりにも自国を過大評価した見方であると思います。恐らく、中国の…

雄略は漢風名、倭讃も漢風名でしょうが、雄略/ワカタケル/倭王武などの使い分けは、一体どのようになされているのでしょう。

我々がふつう天皇を呼ぶときに用いる漢字2字の呼称、この場合の「雄略」は漢風諡号というものです。実はこれは『日本書紀』に記載されておらず、文武・聖武・孝謙を除く神武〜持統・元明・元正は、8世紀の半ば過ぎに淡海三船によって一括考案・奏進された…

ワカタケルの名を刻印した刀剣の銘文について、その作り方までどうして記す必要があったのでしょうか。 / 銘文の刻まれるものが刀剣でなければならない理由はあったのですか。

授業でもお話ししましたが、当時良質の鉄は朝鮮半島から輸入されており、当然のごとく錬鉄の知識・技術も特別なものとして評価されていました。ゆえに銅鏡にも制作地や制作者の名前が鋳造され、鉄剣銘などにも同様の形式が用いられたと考えられます。立派な…

倭の五王についてですが、讃・珍が河内集団、済・興・武が大和集団とすれば、前者をヤマト王権と称するのには少々戸惑いがあります。 / 2つの系譜が別々の集団としても、何らかの血縁関係はあったのではないでしょうか。 / 2つの系譜が、「倭」という同一の姓で継続性をアピールした理由は何なのでしょうか。 / 河内と大和との関係などは、どのような史料で明らかになったのでしょうか。

ヤマト王権という言葉は現在慣例的に使用されていますが、確かに対外的な史料の記述からも、「倭王権」と呼称するのが妥当でしょう。この言葉ならば、大和集団も河内集団も同一の範疇で把握でき、複数の系譜に属する王が一律に倭姓を名乗ったこととも対応し…

5世紀、倭国で兵士を担っていたのはどのような人々だったのでしょう。

氏族制の概念からいえば、統括していた人々、主力を形成していた人々は、後に大伴や物部といった軍事関係の伴造に編成されてゆくような豪族たちだったでしょう。また、各地域でヤマト王権に従属していた豪族たちも、自らの軍兵を保持していたはずですので、…

古代において山といえば三輪山だと思うのですが、そこにも神はいたのでしょうか。

もちろん、三輪山の麓には大神神社という神社があり、日本最古の神社といわれています。祭神は三輪山自体を神体とする大物主で、神話においては蛇の姿で形象されます。しかし、考古学的にはその神格・祭祀には変遷があるようで、かつては王権の故地からみて…

磐座祭祀についてですが、巨岩自体が神とされるのはどうしてなのでしょうか。海や湧水点は生命の生じるところとして理解できるのですが…。 / 木なども祀られたのでしょうか。

繰り返しになりますが、アニミズムは無生物も含めて森羅万象に神霊の存在を認めるものです。樹木信仰などはその典型ともいえ、日本列島では縄文時代の段階から確認できます。『古事記』や『日本書紀』のなかにも、巨樹信仰や、神殺しの対象として樹木を伐採…

『古事記』によると、日本には八百万の神々がいるそうですが、それも神道の思想なのでしょうか。天照大神は、その神々のトップですか。 / 伊勢神宮が創建されたのはいつ頃なのでしょうか。

別のところでも書きましたが、現在の神道は極めて近代的な概念ですので、古代においては神祇信仰と呼ぶのが相応しいでしょう。「八百万」も実数ではなく「たくさん」という意味で、文献によって異なる数が記されている場合もあります。よって、八百万それぞ…

沖ノ島は外国の人々によっても祭祀されたとのことですが、渡来人も、日本に来る前に信じていたものがあったはずです。解釈の相違をめぐる軋轢などなかったのでしょうか。

アジアの宗教的態度は、シンクレティズムが基本です。すなわち、他を排斥するような宗教に入信しない限りは、複数の神的存在を違和感なく信仰しうるということです。アニミズム世界においては、森羅万象のすべてに神霊が宿っており、人々は時と場合に応じて…

神社に祀られる男神/女神の区別は、一体どのようにして決まるのでしょうか。宗像の場合、海上の安全を祈るなら男神の方がいいように思いますが。 / 神に対して、男女の区別があるという考え方は、いつ頃から存在したのでしょうか。

神をいかなるものとして定義するかにもよりますが、「神的存在」として広義に捉えるなら、縄文時代の土偶の一部も女神を象徴するものとみることができます。人間を含む動物、植物などが持つ雌雄の区別は、精霊や神的存在にも適用されるのが普通で(神話など…

古墳に対する祭祀をしなくなったのは、いつ頃からなのでしょうか。 / 何を契機として、神祇祭祀と古墳祭祀の区別が付いたのでしょうか。 / 区別が付いていない状態は、死者=神と理解してよいのでしょうか。

古墳祭祀が終焉を迎えるのはその終末期、7世紀前半と考えられます。ちょうどいま授業でやっているあたりで、中国文化を受容して社会改造を行い、思想や心性も前代から大きく変質してゆく時期です。古墳祭祀のメンタリティー、その様式は神社祭祀に継続して…

この時代の交流の基盤になった船舶は、どのような形をしていたのですか。また、単独で渡航していたのでしょうか、それとも船団を組んでいたのでしょうか。

舟形埴輪や装飾壁画、以前に授業でも紹介した巣山古墳の舟形木製品、その他瓜破北遺跡などで出土した船材の一部などから、古墳時代の船は準構造船とみられています。すなわち、内刳を施した丸木船を核に、前後両側面に板材を加え拡張したものです。外洋の航…

府官制は、古墳時代以降には機能しなかったのでしょうか。

雄略以降の大王が、中国王朝から将軍職を得て開府をしたという記録は残っていません。これはやはり宋王朝が滅亡し、その後に隋が中国全土を統一するまで、南朝では比較的短命な王朝が興廃したという事情によるものでしょう。その間、ヤマト王権は王家の確立…