2009-05-01から1ヶ月間の記事一覧

漢籍の文章をそのまま『書紀』に援用するのはなぜなのでしょう。いくら『書紀』が国内向けとはいえ、「パクリ」だと知られたら大変だと思うのですが。

『書紀』は必ずしも国内向けではなく、むしろ、朝鮮半島や中国王朝に対して、日本文化の先進性を証明するために作られた色彩が濃いと思われます。だからこそ、漢籍の文章を使用していることが大切なのです。現代の感覚ではパクリかも知れませんが、古代にお…

渡来系の人々にも自然神に対する信仰はあったのでしょうか。

それはもちろん持っていたでしょう。事実、日本各地には中国や朝鮮に由来すると考えられる神々を祀る神社が存在します。『書紀』や『古事記』のなかにも、太陽神と思われる「新羅王子天之日矛(アメノヒボコ)」が渡来し、列島に定着してゆく様が語られてい…

史料19で、なぜミズチは「鹿」に化けたのでしょう。また、瓢箪にはどのような意味があるのですか。

ミズチが鹿に化けること自体は、瓢箪とは直接的には関係ありません。現代人にとっては不思議かも知れませんが、古代人にとって、鹿と水とは非常に関わりの深い存在であったようです。それはひとつには、海や川を渡っているときが鹿の最も無防備な状態であり…

日本は多神教といわれていますが、7〜8世紀の自然神に対して行われた祭祀で、現在も受け継がれているものはありますか。また、祭祀の起源はその頃だと思ってもいいのでしょうか。

講義でお話ししたような木鎮めの祭儀は、未だに実践している林業地帯はあるはずですし、とくに神社建築を行う場合などには遵守している地域が多いと思います。その典型が、大規模な式年遷宮を行う伊勢神宮であり、同じ伝統のうえに御柱祭を行う諏訪大社でし…

家を建てる際に、何度も祭祀を繰り返すというお話でしたが、それでも災禍が起こるときには、やはり祭儀を続けるのでしょうか。

きちんと祭祀を行っていても災害が生じる場合、古代人は、自らの祭祀の方法が間違っているか、神意が自分たちより離れていると考えます。そこで卜占を通じて神の意志を読み取り、神の望む祭祀の方法を探り出そうとするのです。亀卜や託宣などの手段で神の意…

例の中では雷神や水神が多いように思うのですが、日本ではそれらの神に対する信仰が強かったのでしょうか。 / 水神や雷神が、蛇のような形に表されることが多いのはなぜでしょう。

雷神や水神が強く信仰されるのは何も日本だけではなく、多くの神話や原始信仰にみられる現象です。ギリシア神話や北欧神話、インド神話などでも、大体において神々のパンテオンの頂点に立つのは雷神です。それは雷の被害が極めて恐ろしいものであり、また農…

史料17では、自然神も天皇の命令に逆らえないことを強調していますが、史料18では逆に天皇に託宣をしています。両者で神の位置づけが違っているのはなぜなのでしょう。 / 史料18で天皇の夢に出てきたのは河伯でしょうか、それとももっと高位の神ですか。

講義でも話しましたが、私たちが現在みることのできる形態としては、史料18の方が古態を留めているからでしょう。しかし、それゆえにいろいろな矛盾も孕まれてしまっています。天皇の夢に出てきたのがいかなる神なのかは議論のあるところですが、下段に説明…

古代の人々は、自然への恐れをどのようにして失っていったのでしょうか? そもそも神話を作るには、作る人が自然への恐れの念が少なくないと作れないと思うのですが。そのきっかけは、単に開発のためだけでない気がします。 / 神殺しで自然の神を殺してしまった後、人々は山や河を誰が守っていると考えたのでしょう。

自然信仰にも、表層部分では長い歴史のなかで大きな変転があります。例えば、和歌山県南部の海岸にはかつてイザナミの墓所と考えられた窟がありましたが、平安時代になると熊野社の分身である王子神を祀る場所となり、また仏教の弥勒信仰に基づいた経典埋納…

唐制で大蔵に当たる官司はなかったのでしょうか。

法円坂倉庫群や鳴滝遺跡の図をみて疑問に思ったのですが、黒丸の柱の跡は、なぜこんなにも位置や数がばらばらなのでしょう。

全体を発掘するとある程度のプランがみえてくるのですが、実際は、プランどおりに柱穴が見つからない場合や、微妙にずれている場合、あるいは重複して検出される場合などがあります。それは、短期間のうちに建て替えが起きたり、一部で地層の攪乱が起こった…

「弓末の調査」=肉・皮革といった説明がありましたが、農作物はどうだったのでしょう。

稲については、やはり、神や共同体の首長へ初穂貢上の儀礼があったものと考えられています。それを受け取って食すことが、支配の確認の意味を持ったんですね。これは律令制に採り入れられて、租庸調の「租」に位置付けられてゆきます。

葛野郡の班田図をみて、こんな昔に記号で土地利用状況を表していたと知り、写真のない時代でも何とか土地の様子を記録しようとした努力の結果と思いました。

これは私の説明不足でした。実際の葛野郡班田図をみますと、各地域の情況はマスのなかに「山」「林」「庄田」「陸田」などと文字で書いてあります。それを分かりやすく記号化したものをみていただいたわけです。

史料20で奴理能美は大后に三種の虫を献上したとありますが、なぜ天皇ではなかったのでしょう。また、その後大后は宮に帰ったのでしょうか?

前後には蚕や桑を詠み込んだ歌も出てきますので、やはり講義でも紹介した、后妃の行う年中行事としての養蚕の問題と関係があるのでしょう。ちなみに、大后の石之比売は、『古事記』では和解して仁徳天皇のもとへ戻っていますが、『書紀』では筒城宮に留まり…

『大安寺縁起』に書かれている九重塔の破壊は、火災という可能性はないのでしょうか。

可能性としてはゼロではありませんが、やはり子部神社の性格を考えると雷の可能性が高いと思われます。それに、仏塔の焼失原因として、史料上最も頻繁に現れるのが「落雷」なんですよね。例えば『続日本紀』宝亀三年(772)4月己夘条に、「西大寺の西塔に震…

史料19でもみましたように、蚕や蝶などが神聖視されている印象を受けます。やはり、変態するものは信仰の対象になりやすいのでしょうか?

脱皮する蛇といい、オタマジャクシから変態するカエルといい、やはり変態するものには神聖視される場合が多いですね。それは偏に、満ち欠けする月のように、変態を死と再生のありさまと捉えたからでしょう。日本に限らず、自然の法則を〈生から死、死から再…

本覚論は現世の肯定と仰っていましたが、それはキリスト教が「この世は神の国である」と唱えることと共通するのでしょうか。

キリスト教のいい方は、やはり旧約・新約を前提として、約束された救済から現世をみるとそれはもはや神の国であるということでしょう。それは一見現実の肯定にみえて、やはり現実の向こう側に真理を設定した世界観なのです。一方の本覚論は、何の前提もなく…

現実の問題として、生きてゆくためには他の生命を奪わなくてはなりません。草木成仏論を展開していながら、実際には殺生を行っている矛盾を、人々はどのように認識していたのでしょうか。

これは2回目の結論部分に関わりますね。実際、殺生戒を完全に徹底しようとすれば、人間は生きてゆけません。その意味で、生命に差別を設けるインド仏教の見方の方が現実的ではあるのです。中国や日本の草木成仏論は、そうした差別に疑問を感じ、樹木を殺害…

依正不二によって成仏する主体の周辺の存在についてですが、その際に本人の意志や責任などはどこへ行ってしまうのでしょう。

我々が人間である限りは当然の疑問です。しかし、仏教は本来、世界における「存在」も主体の属性も認めません。いわゆる「無我」の立場なので、本人の意志にこだわること自体が執着であり、煩悩のなせる業なのだと考えるのです。かりそめに過ぎない自己の存…

六道絵に関する質問なのですが、地獄で人を裁く獄卒たちも、輪廻してきた存在なのでしょうか。それとも裁く人が専門でいるのでしょうか。

地獄の成立は、仏教以前のインドにおける冥界観、西域や中国における独自の冥界観が絡み合ってきますので、必ずしも仏教の論理で説明できるわけではありません。あえて説明を加えようとするなら、地獄の世界は衆生の行動を戒めるための方便であり、悪業に傾…

疑偽経が草木成仏論にも大きく関わり、インド伝来の経典でないことは、インド・中国・日本の思想の違いを表しているのでしょうか。

そう考えていいと思います。当初、仏教が中国へ入ってきたとき、人々はその思想を理解するために儒教の言葉・概念を用います。また、六朝から隋唐にかけて仏教の民衆化が進むなか、道教やその他民間信仰との交渉もあって、だんだんと仏教の様相が変わってゆ…

「色即是空」が何を意味しているのかよく分かりません。変ないい方かも知れませんが、私は無いものも存在していると思います。仏教的な世界観における「無い」が何を意味しているのか教えてください。

哲学的に議論しようとすると、森羅万象は存在なのか関係なのかという問いに収束してきます。自己をモデルとする主体的存在が確固としてあり、それらが相互に関係し合うことで世界が成り立っているとみるのが存在論なら、その存在さえ関係の網の目があたかも…

テレビで阿修羅象の運搬を扱っているとき、僧侶が魂を抜く儀式を行っているのをみました。そういった「魂」は、仏像が作られたときから存在していたのでしょうか、それとも長い年月のなかで生まれてきたのでしょうか?

あくまで聖なる存在のカタチを模倣したもので、それ自体が神聖なわけではないにもかかわらず、仏像には何らかの神的な力が付与されてゆきます。それを「神霊が宿る」というイメージで捉える傾向は、やはり日本仏教で顕著です。いわゆる仏像の魂抜きや魂入れ…

平城京や平安京のような整然とした古代都市と、江戸のような雑然とした近世の都市のイメージはずいぶん違いますが、それはどうしてなのでしょう?

平城京や平安京は、政治的目的によって意図的に創出されたもので、その意味では社会的・経済的なものとしての「都市」の定義からはかけ離れた存在です。礼的秩序を視覚化するために採られた整然とした区画配置も、庶民の日常生活とは無関係に設定されたもの…

古代からかなり大規模な環境破壊が行われていたことが分かりました。ではなぜ、「日本人は自然と共生してきた」という誤解が浸透してきたのでしょう?

日本列島の自然条件は植物の生育に適しているため、自然の回復力が強く、人間の爪痕が長く残存しない環境にあります。すなわち、過去の人間たちが破壊した環境も、多くは年月が経つうちに消えてしまい、後世の人々の記憶には残らなくなるわけです。こうした…

藤原京の後も、遷都をする度に近隣の山々がはげ山化していたのでしょうか?

現在の大阪湾は、8世紀頃まではかなり内陸部にまで入り込んでおり、生駒山地の西側の麓に津があるような環境でした。それが、10世紀頃には史料に船の座礁の記事が出始め、湾が次第に土砂で埋まっていったことが判明しています。その原因こそ、淀川水系上流…

高校のときに日本史の先生が、「都は下水施設がなかったので排泄物が積み重なり、度々遷都せざるをえなかった」といっていましたが、本当でしょうか?

藤原京段階から、すでに汚物を水路を通じて排出する仕組みはできていました。しかし、平安京に至るまで水路の清掃は充分行き届かず、また、庶民がゴミや動物の遺体を次々に廃棄するので、水路がすぐに詰まってしまって汚水が溢れ出るという情況はありました…

藤原造営にはどれくらいの労力を費やしたのでしょう。 / 造営の際に石材を採ったり木材を伐採したりした人々は、どのような労働者だったのでしょう。

労役としての仕丁と、日雇いの雇夫といった単純労働力が主力であったと考えられています。前者は8世紀の養老令制で2000人強が上京し(食事を担当する廝丁も含めれば2倍)、各司庁へ配分されていました。日本律令の手本となった唐令にはないものなので、藤…

藤原遷都の際、造営が完全に終わってから移るのでしょうか。また、造営にはどれくらいの時間がかかったのですか。

藤原遷都は持統天皇8年(694)12月ですから、天武が新城の建設計画をスタートしてから実に18年が経過しています。しかし、工事が本格化したのは持統朝になってでしょうから、10年弱といっていいかも知れません。遷都の際、政務を行いうる機能は備えていなけ…

藤原周辺はただでさえ湿地が多いのに、周辺で伐採したら災害が起きるのではないでしょうか。そうした情況は、自然を支配しようとする神話と対立するのではないでしょうか? / 祟りが起きたり、都全体が呪われたり、不吉な土地になるということはなかったのでしょうか。

斉明朝の飛鳥開発では土砂崩れ等を暗示する記事があるのですが、藤原については認められず、むしろ『万葉集』には、自然と調和した都であることを讃嘆する歌が載せられています。水の湧く低湿地であることは、古墳時代以来の聖地感覚に合致しており、人心の…

藤原京建設による環境への影響について、反対する人はいなかったのだろうか。

上にも挙げた斉明朝の開発の際には、それに対する批判を大義名分に掲げた有間皇子の謀叛がありました。藤原京の造営過程においては目立った反対行動は起きていませんが、政府が律令国家建設のために着々と制度を整え、祭祀や儀式を繰り返して周到に人心の鎮…