全学共通日本史(08秋)

饗応の場が飛鳥寺西の地域に集中しているのは、大槻があった他にも、風水などによる重要性があったのではないでしょうか。

風水はともかく、飛鳥寺西に典型的に現れる山(丘)・清水・樹木がセットになっている空間が、古墳時代以来神聖な場所として重視されてきたのは確かです。現在古墳時代の祭儀として最も注目されているものに、各地域共同体の首長が担った湧水点祭祀・導水祭…

祖先信仰が樹木信仰に変わってゆく過程を詳しく知りたいです。

もちろん、すべての祖先信仰が樹木信仰になるわけではありません。あくまで飛鳥地域の個別的事例です。樹葉という名前からすると、この衣縫造の祖先は、神木(斎槻と思われる)の祭祀を担い共同体を統轄していたシャーマンだったのでしょう。斎槻はその奉祀…

中国・朝鮮・日本と同じような話が残っているのは、原型を作ったのが中国で、それが順次伝わってきたということでしょうか。日本も中国と同じ道を歩んできたのだ、という意味が隠されていそうです。

多くはそうでしょう。以前ちょっと触れた崇仏論争の話など、まさに廃仏を克服して隆盛を手に入れた中国仏教の歴史をなぞり、同じ道を辿ってきたことを示すために日本で作られたエピソードと考えられます。平安初期に編纂された日本最古の仏教説話集『日本霊…

須弥山ですが、斎槻の仏教的再現なら菩提樹を使えばいいと思うのですが。

釈迦がその樹下で悟りを開いたというインドボダイジュ(クワ科)は、中国中原の寒冷な地域ではうまく育たず、代わりに葉形が似ているボダイジュ(シナノキ科)が用いられるようになったといいます。しかし、そのいずれも古代の日本には存在しませんでした。…

槻(ケヤキ)が神木として出てきますが、なぜ槻が特別な意味を持ったのでしょう。 / 斎槻にはどのような神格が宿り、どういった祭祀が行われていたのでしょうか。 / 松には神が宿るとの話でしたが、桜ではないのですか?

きちんと論証されているわけではありませんが、ケヤキは、幹自体がどんどん分岐してゆく仮軸分岐という枝分かれをし、一本の中核的幹から枝葉が生えるという柱的な樹形ではなく、こんもりした広がりある樹形を作る。それが神の坐す場所として相応しいと認識…

貴重な映像が観られてよかったです。あのような舞を舞う人たちは、どうやって選ばれているのでしょう。神社の人たちですか?あの祭祀は一般の人はみられないのでしょうか?

江戸時代初期に編成された三方楽所(京都・天王寺・南都)の話は講義でもしましたが、これらの多くは明治初期に再編成され、その中核は宮内庁楽部として活動しています。現在関西方面に存在するのは、三方楽所の伝統を受け継ぐ春日大社の南都楽所と四天王寺…

『史記』にも剣の舞を舞いながら相手を刺そうとする場面があったように思いますが、日本もそのような影響を受けて武器を持った舞が発達したのでしょうか。 / 舞を舞ううえで剣や鈴を用いることには理由があるのでしょうか。

中国の影響は強いとは思いますが、もちろんそれだけではなく、在来系には在来系の独自の発展過程があったと思われます。弥生時代の土器や銅鐸には、すでに鳥の格好をして武器を持った人々の姿が描かれており、演舞もしくは模擬戦の様子を表現したものではな…

朝鮮半島にも集団の剣舞があるのをテレビで観ましたが、外来系/在来系と明確に分けられない可能性もあるのでしょうか。

そうですね。プリントに載せておいた外来系の度羅舞などがいい例です。これはビルマに由来するとの説もあるのですが、武器を用いた集団演舞である点から、逆に日本と交流の深かった耽羅のものではないかと推測したのです。もちろん、中国にも集団の演舞はあ…

前近代社会や民族社会においては、なぜ「人間神」という概念が持ち出される必要があったのでしょう。

神を奉祀する存在がやがて神性を帯び、それ自身神と同様に崇拝されることになるのが人間神でしょう。日本の天皇もそうですし、誤解を恐れずにいえば釈迦やイエスにも類似の痕跡をみてとることができます。宗教の原始段階においては、広く共通して見出せる事…

乙巳の変のあとにも、王殺しの思想に基づく事件やその記述は存在したのでしょうか。

どうなんでしょう。従来の日本史では、天皇制の存続を考えるとき、政治的権力は将軍に移ったが宗教的権威は天皇にあり、ゆえに日本列島においては、天皇/将軍による二元的支配が長く続いたといわれてきました。しかし近年の研究では(例えば曽根原理『神君…

王殺しが首長霊を取り去る作業なら、逆に新たな身体へ憑依させる祭儀もあったと思うのですか。

日本で最も注目されるのは〈真床襲衾(マドコオブスマ)〉と呼ばれる大嘗祭の秘儀です。秘儀ゆえに、具体的にどのようなことが行われているのか分からないのですが、ニニギが天孫降臨の際にくるまっていた敷物に体を包むことで、太子は天皇霊を憑依させ新天…

春学期の「日本史概説」では、アニミズムに基づく神殺しの問題が出てきました。生き物を殺して利用しても生命を奪ったことにはならないという発想は、樹木の場合にも適用されたのでしょうか。つまり、樹木を伐ってもその精霊は残ると考えていたのでしょうか。

そうです。樹木にも生命の根源としての精霊=樹霊が宿っていると考えられており、この樹霊を木で作る邸宅や船舶の守護神に転換する祭儀(木鎮め)や、イヲマンテと同じく精霊の世界へ送り返す祭儀(木霊送り)が、古代から連綿と受け継がれてきています。例…

神道とアニミズムは同じものですか。

厳密にいうと、現在日本で行われている神道は、中世から近世にかけて儒教や仏教の影響を受け体系的宗教としての形態を整えたものなので、アニミズム的ではなあってもアニミズムではありません。神道の原型は古代にあり、「神道」ではなく神祇信仰と呼んでい…

アニミズムは日本固有の信仰と習ったのですが、世界にも似たような宗教形態があったのですか。

もちろん日本固有ではなく、極めて普遍的に存在する最も原始的な宗教形態のひとつを指します。イギリスの人類学者ターナーが最初に使用し、以降多く使われるようになりました。講義でも説明したとおり、森羅万象のあらゆるものに人間と同じ霊魂=生命(アニ…

「俳優」をワザヲギと読むなど、古代の史料は訓み方が非常に特殊です。現代とあまりにも違うのは、漢字の読み方自体が変化してきたからでしょうか。

7〜8世紀は、古代国家の官人層を中心に漢字の受容が進み、倭の在来の言葉をどのように漢字・漢文で表記するかという試行錯誤が進んだ時代です。ゆえに、どのような言葉をどのような文字で表すかはまだまだ不安定であった、いいかえればその形成期であった…

崇峻暗殺について、『魏志』に載る司馬昭の4代皇帝曹髦殺害に酷似している気がします。何らかの影響があったのでしょうか。

『書紀』は、引用された漢籍や音韻、漢文の文法などから綿密に解析してゆくと、中国人が撰述したと考えられるα群(巻14〜21・24〜27)、漢文に長けた日本人が編纂したと考えられるβ群(巻1〜13・22〜23・28〜29)、巻30の三つに分けられます。崇峻紀は巻21で…

「軽皇子」が2人いたことについては少々驚きました。同名にすることに、何か特別な意味はあったのでしょうか。

中国文化の避諱を導入することで、次第に同名を付ける/称することに抵抗が芽生えてくるようですが、七世紀までの段階ではとくに注意は払われていなかったようです。ちなみに講義では触れませんでしたが、県犬養宿禰三千代が前夫美努王との間に生んだ橘諸兄…

なぜ渡来人はあれだけ受け容れられ重宝されたのに、蝦夷は敵視されたのでしょう。この差別の理由は、単に先進的知識・技術の有無にあったのでしょうか。 / なぜ朝鮮諸国を服属国とみなす必要があるのか分かりません。

これは、古代国家が依拠した中華思想に拠るものです。中華とはそもそも文化の中心、秩序の核を意味しますが、中国王朝の世界観においては、その周囲には文化の行き渡らない野蛮な異民族が存在しました。いわく、北は北狄、東は東夷、南は南蛮、西は西戎。こ…

県犬養三千代の系図の話で、近親婚が非常に多かったように感じたのですが、発達障害を持つ子供が生まれたりはしなかったのでしょうか。

そうした子供は確実に生まれていると思われますが、史料には明確に記されていません。ただし、生まれつき身体が虚弱だったり、精神に問題を抱えている天皇の記事はときおり記録にみられます。それでも維持されねばならない血統があったわけで、生物が従うべ…

孝徳朝の難波長柄豊碕宮には、新しい宮城構造があったはずですが、まだ大極殿は設置されていなかったのですか。

いわゆる前期難波宮には、確かに大極殿とおぼしき施設が認められます。北側の内裏と南側の朝堂の中間に位置する建物で、天皇(大王)が出御し政務・儀式に臨むに相応しい場所です。しかし問題は、現在確認できる遺構は朱鳥元年(686)に焼失した廃絶時のもの…

天皇が殺されることは歴史上ほとんどありませんが、それほど困難であったということですか?

現実的な困難、政治的な困難、そして平安期以降においては精神的な困難が伴ったでしょう。大王を〈現御神〉天皇とするイデオロギーは天武・持統朝に形成され、奈良期を通じて喧伝されてゆきます。祭政一致の核が殺害という形式を採らずに交替を繰り返し、一…

献上されるのが山猪である必要はあったのでしょうか。

食肉の歴史からいうと、日本列島の場合、鹿と猪が縄文期より代表的な狩猟対象となっています。どちらも文献に神の使者として登場しますが、鹿が人間に幸いをもたらす性格が強いのに対し(春日神や鹿島神の場合が典型的)、猪は災禍を将来する役割を帯びてい…

なぜ崇峻天皇は蘇我氏を嫌っていたのだろうか。崇峻を擁立したのは蘇我氏だったのでは。

崇峻と蘇我馬子との政治路線の対立が原因であったと考えられています。暗殺記事のすぐ前に書かれている、『書紀』崇峻天皇四年八月・十一月条によれば、崇峻は欽明天皇の頃に新羅によって滅ぼされた倭の朝鮮経営の拠点「任那の官家」を復興しようと図り、新…

京都に「太秦」という地名がありますが、これは秦氏と関わりのある場所なのでしょうか。

そうです。秦氏は講義でも説明したように、元来は血のつながりのない雑多な渡来人の群集を、朝廷が「秦氏」と呼称しまとめたものです(地域ごとに職保有技術の共通するものを集めた可能性はあります)。しかし、その統括者=族長には幾つかの血統があり、時…

この時代は渡来系の人々が重要な役職に就いて政治にも関わっていたようだが、当時の倭人に国家を乗っ取られてしまうといった危惧はなかったのだろうか。

天智朝に亡命してきた百済王族が迎えられるまで、渡来系氏族は実務官人の地位に留まっていましたので、渡来人に征服されるかもしれないという危惧は一般的ではなかったようです。ただし、『日本書紀』には、乙巳の変の現場から自分の宮へ逃げ帰ってきた古人…

阿倍氏や中臣氏は役職に基づくウジ名ですが、それが付けられる以前に名はあったのでしょうか。

集住している土地の名前から部族名が生じてくる、というのが一般的なあり方だったでしょう。朝廷の職掌に基づくウジ名を持つ氏族は、その役割が国家運営と関わるものであるほど新たに編成された可能性が高くなります(氏族というと自然発生的なニュアンスが…

個人的に阿倍氏のことをまったく知らなかったので、もっと背景を知りたいと思いました。

講義でも触れましたが、もともと大王の供御に奉仕していた氏族で、常に側近に位置するその情況、食料獲得の役割上海上交通などの技術に秀でていたこと(海洋系氏族の安曇、海部などと同族的関係を結んでいる)などから、王権の直轄軍を指揮する役割も帯びて…

乙巳の変の立役者が他にいるのだとしたら、なぜ『日本書紀』は中大兄や鎌足を祭り上げているのでしょう?

孝徳朝に中大兄と鎌足の政治的立場が急速に高まり、『日本書紀』はこの二人の政治的立場を受け継ぐ王朝が編纂してゆくことになるからです。国史編纂を始めた天武は、壬申の乱で天智の長子大友皇子を滅ぼしていますが、政治路線としては改新政府のそれを受け…

『日本書紀』の記述でのみ軽皇子と鎌足の主従関係を想定するのは心許ない。もっと他に史料はないのだろうか? / 改新政府が決裂したという件がよく分かりませんでした。

『日本書紀』白雉四年是歳条には、中大兄が当時宮の置かれていた難波から飛鳥へ移りたいと奏上したものの、孝徳天皇が許さなかったため、皇祖母尊(皇極)・間人皇后を連れて強引に飛鳥へ戻ってしまった。公卿や官人たちもその後を追っていったので、孤立し…

中臣鎌足が同族を味方に付けるために摂津に退去したとの説についてですが、それは鎌足自身が朝廷における入鹿の座を狙っていたからなのですか。

さほどの政治的実権を持たなかった当時の中臣氏に、そのような野心があったとは考えられません。同族のネットワークをまとめる作業のうちに、軽皇子や阿倍氏、蘇我倉家の策謀に絡め取られていったのではないでしょうか。