日本史概説 I(09春)

亀卜が日本へ入ってきたことによって、鹿を使った太占は行われなくなったのでしょうか。

王権のなかでは用いられなくなりましたが、地域社会においては実践され続けています。現在でも、青梅の御獄神社など、関東の数社に鹿卜の神事が残っています。弥生時代には、各地で鹿卜の痕跡が見つかっていますし、鳥取の青谷上寺地遺跡では、200余もの卜骨…

亀の甲羅の亀裂がすべて同じような形になるのなら、どのように吉凶を判断したのでしょうか。

実際には微妙な相違があります。殷代では、亀裂が入るときの音も重要な意味を持ったようですが、後代になると、亀甲への傷の付け方が変わり、より多様な亀裂とその読み取り方の定型化が進みました。『史記』亀策列伝には、亀裂の図こそ消えてしまったものの…

亀卜の実験では、亀はどうやって手に入れて、甲羅を剥がしたのでしょうか。

授業中も話しましたが、亀甲の入手について、ぼくは関与していなかったので分かりません。殷代では、マレーシア産の大陸亀を使用していた形跡があるものの、大部分は20センチ程度のクサガメやハナガメでした(すなわち、海亀を用いた日本とは違って、すべて…

神亀と玄武とは関係はありますか?

ともに亀が神聖視された結果である、という点では共通します。ただし、玄武が五行思想に取り込まれ北方の守護神に位置付けられた存在であるのに対し、神亀や霊亀は天意を伝えるためのメディアであり、もっと広汎な位置付けが可能なものですね。

「亀」について。日本では海亀などが周期的に産卵に来ていたり流れ着いたりするので、神聖視されてゆくのは分かるのですが、中国ではなぜそうなったのでしょうか。

そもそもの神聖化の理由としては、1)牛や羊の肩胛骨と比べて多くの平面を確保できるため、2)食亀の習俗との関係、3)亀の希少性・宝物性、4)亀の霊験性・呪術性(亀霊崇拝)などが指摘されていますが、現在最も注目を集めているのは4)です。近年、黄河下…

聖徳太子の存在に対して議論があるとのことですが、なぜ現在、「彼は存在していなかった」とする主張が台頭してきたのでしょうか。

聖徳太子の業績に対する史料批判は昔からあったのですが、現在の傾向は中部大学の大山誠一氏の研究が発端となっています。大山氏の論点は多岐にわたりますが、その基盤は、太子の業績を伝える『日本書紀』と「推古朝遺文」(法隆寺系統の仏像銘文等々)の徹…

和歌の贈答が始まるのはいつ頃からなのでしょう。

歌のそもそもの役割は神霊と交渉することにあったと思われますが、やがてそれが、人間と人間を結びつける手段としても使われるようになります。いわゆる「歌垣」では、男女が歌の掛け合いを行うことで、結婚相手を選びます。『風土記』には歌垣に関する地名…

漢籍の文章をそのまま『書紀』に援用するのはなぜなのでしょう。いくら『書紀』が国内向けとはいえ、「パクリ」だと知られたら大変だと思うのですが。

『書紀』は必ずしも国内向けではなく、むしろ、朝鮮半島や中国王朝に対して、日本文化の先進性を証明するために作られた色彩が濃いと思われます。だからこそ、漢籍の文章を使用していることが大切なのです。現代の感覚ではパクリかも知れませんが、古代にお…

渡来系の人々にも自然神に対する信仰はあったのでしょうか。

それはもちろん持っていたでしょう。事実、日本各地には中国や朝鮮に由来すると考えられる神々を祀る神社が存在します。『書紀』や『古事記』のなかにも、太陽神と思われる「新羅王子天之日矛(アメノヒボコ)」が渡来し、列島に定着してゆく様が語られてい…

史料19で、なぜミズチは「鹿」に化けたのでしょう。また、瓢箪にはどのような意味があるのですか。

ミズチが鹿に化けること自体は、瓢箪とは直接的には関係ありません。現代人にとっては不思議かも知れませんが、古代人にとって、鹿と水とは非常に関わりの深い存在であったようです。それはひとつには、海や川を渡っているときが鹿の最も無防備な状態であり…

日本は多神教といわれていますが、7〜8世紀の自然神に対して行われた祭祀で、現在も受け継がれているものはありますか。また、祭祀の起源はその頃だと思ってもいいのでしょうか。

講義でお話ししたような木鎮めの祭儀は、未だに実践している林業地帯はあるはずですし、とくに神社建築を行う場合などには遵守している地域が多いと思います。その典型が、大規模な式年遷宮を行う伊勢神宮であり、同じ伝統のうえに御柱祭を行う諏訪大社でし…

家を建てる際に、何度も祭祀を繰り返すというお話でしたが、それでも災禍が起こるときには、やはり祭儀を続けるのでしょうか。

きちんと祭祀を行っていても災害が生じる場合、古代人は、自らの祭祀の方法が間違っているか、神意が自分たちより離れていると考えます。そこで卜占を通じて神の意志を読み取り、神の望む祭祀の方法を探り出そうとするのです。亀卜や託宣などの手段で神の意…

例の中では雷神や水神が多いように思うのですが、日本ではそれらの神に対する信仰が強かったのでしょうか。 / 水神や雷神が、蛇のような形に表されることが多いのはなぜでしょう。

雷神や水神が強く信仰されるのは何も日本だけではなく、多くの神話や原始信仰にみられる現象です。ギリシア神話や北欧神話、インド神話などでも、大体において神々のパンテオンの頂点に立つのは雷神です。それは雷の被害が極めて恐ろしいものであり、また農…

史料17では、自然神も天皇の命令に逆らえないことを強調していますが、史料18では逆に天皇に託宣をしています。両者で神の位置づけが違っているのはなぜなのでしょう。 / 史料18で天皇の夢に出てきたのは河伯でしょうか、それとももっと高位の神ですか。

講義でも話しましたが、私たちが現在みることのできる形態としては、史料18の方が古態を留めているからでしょう。しかし、それゆえにいろいろな矛盾も孕まれてしまっています。天皇の夢に出てきたのがいかなる神なのかは議論のあるところですが、下段に説明…

古代の人々は、自然への恐れをどのようにして失っていったのでしょうか? そもそも神話を作るには、作る人が自然への恐れの念が少なくないと作れないと思うのですが。そのきっかけは、単に開発のためだけでない気がします。 / 神殺しで自然の神を殺してしまった後、人々は山や河を誰が守っていると考えたのでしょう。

自然信仰にも、表層部分では長い歴史のなかで大きな変転があります。例えば、和歌山県南部の海岸にはかつてイザナミの墓所と考えられた窟がありましたが、平安時代になると熊野社の分身である王子神を祀る場所となり、また仏教の弥勒信仰に基づいた経典埋納…

テレビで阿修羅象の運搬を扱っているとき、僧侶が魂を抜く儀式を行っているのをみました。そういった「魂」は、仏像が作られたときから存在していたのでしょうか、それとも長い年月のなかで生まれてきたのでしょうか?

あくまで聖なる存在のカタチを模倣したもので、それ自体が神聖なわけではないにもかかわらず、仏像には何らかの神的な力が付与されてゆきます。それを「神霊が宿る」というイメージで捉える傾向は、やはり日本仏教で顕著です。いわゆる仏像の魂抜きや魂入れ…

平城京や平安京のような整然とした古代都市と、江戸のような雑然とした近世の都市のイメージはずいぶん違いますが、それはどうしてなのでしょう?

平城京や平安京は、政治的目的によって意図的に創出されたもので、その意味では社会的・経済的なものとしての「都市」の定義からはかけ離れた存在です。礼的秩序を視覚化するために採られた整然とした区画配置も、庶民の日常生活とは無関係に設定されたもの…

古代からかなり大規模な環境破壊が行われていたことが分かりました。ではなぜ、「日本人は自然と共生してきた」という誤解が浸透してきたのでしょう?

日本列島の自然条件は植物の生育に適しているため、自然の回復力が強く、人間の爪痕が長く残存しない環境にあります。すなわち、過去の人間たちが破壊した環境も、多くは年月が経つうちに消えてしまい、後世の人々の記憶には残らなくなるわけです。こうした…

藤原京の後も、遷都をする度に近隣の山々がはげ山化していたのでしょうか?

現在の大阪湾は、8世紀頃まではかなり内陸部にまで入り込んでおり、生駒山地の西側の麓に津があるような環境でした。それが、10世紀頃には史料に船の座礁の記事が出始め、湾が次第に土砂で埋まっていったことが判明しています。その原因こそ、淀川水系上流…

高校のときに日本史の先生が、「都は下水施設がなかったので排泄物が積み重なり、度々遷都せざるをえなかった」といっていましたが、本当でしょうか?

藤原京段階から、すでに汚物を水路を通じて排出する仕組みはできていました。しかし、平安京に至るまで水路の清掃は充分行き届かず、また、庶民がゴミや動物の遺体を次々に廃棄するので、水路がすぐに詰まってしまって汚水が溢れ出るという情況はありました…

藤原造営にはどれくらいの労力を費やしたのでしょう。 / 造営の際に石材を採ったり木材を伐採したりした人々は、どのような労働者だったのでしょう。

労役としての仕丁と、日雇いの雇夫といった単純労働力が主力であったと考えられています。前者は8世紀の養老令制で2000人強が上京し(食事を担当する廝丁も含めれば2倍)、各司庁へ配分されていました。日本律令の手本となった唐令にはないものなので、藤…

藤原遷都の際、造営が完全に終わってから移るのでしょうか。また、造営にはどれくらいの時間がかかったのですか。

藤原遷都は持統天皇8年(694)12月ですから、天武が新城の建設計画をスタートしてから実に18年が経過しています。しかし、工事が本格化したのは持統朝になってでしょうから、10年弱といっていいかも知れません。遷都の際、政務を行いうる機能は備えていなけ…

藤原周辺はただでさえ湿地が多いのに、周辺で伐採したら災害が起きるのではないでしょうか。そうした情況は、自然を支配しようとする神話と対立するのではないでしょうか? / 祟りが起きたり、都全体が呪われたり、不吉な土地になるということはなかったのでしょうか。

斉明朝の飛鳥開発では土砂崩れ等を暗示する記事があるのですが、藤原については認められず、むしろ『万葉集』には、自然と調和した都であることを讃嘆する歌が載せられています。水の湧く低湿地であることは、古墳時代以来の聖地感覚に合致しており、人心の…

藤原京建設による環境への影響について、反対する人はいなかったのだろうか。

上にも挙げた斉明朝の開発の際には、それに対する批判を大義名分に掲げた有間皇子の謀叛がありました。藤原京の造営過程においては目立った反対行動は起きていませんが、政府が律令国家建設のために着々と制度を整え、祭祀や儀式を繰り返して周到に人心の鎮…

自然環境の破壊について、藤原京を画期に大規模化するというのは唐突な印象がありますが、それ以前はどうだったのでしょうか。

もちろん、規模こそ違え、縄文・弥生・古墳と各期にわたり開発は進展してきました。縄文期には、日本列島の平野部はほとんど森林に覆われていましたが、弥生から古墳期に至る稲作農耕の展開によって、かなりの部分が伐採されてしまったことが分かっています…

古墳時代、死者の国に人間を連れてゆく「乗り物」として舟と馬があるとのことでしたが、現在馬についての信仰は消えてしまっているようです。なぜ舟だけ残ったのでしょう。

それは、現代に至る交通手段の発展のなかで、人間を遠くに運ぶツールとしての馬の位置が、次第に低下してきたからでしょう。冥界へ人間を運ぶことができるのは、人間の想像を超えた移動力を持つからに他なりません。日本では中世あたりから、地獄へ亡者を運…

箸墓古墳について、誰の墓なのか諸説ありますが、何か文献に基づくものなのでしょうか。

大まかにいって、崇神朝の倭迹々日百襲姫の墓とする説、卑弥呼の墓だとする説があります。前者は『日本書紀』にその旨明記されていて、後者は邪馬台国=大和説を前提に、箸墓古墳の造営年代とその大規模さから推測されたものです。『書紀』に描かれる百襲姫…

四ッ谷周辺に怪談が多く残っているのは、この辺りが武家屋敷やお堀に囲まれていたからだけなのでしょうか?

もちろん、それだけとは限らないでしょう。例えば現在、雅子妃が愛子内親王と学習院初等科に通学してゆく鮫ヶ橋周辺は、かつて、一大スラム地帯として有名な場所でした。丘陵と谷とが交錯する地形で、丘の上には中級以上の武家屋敷や寺が並んでいるのですが…

「四谷怪談」の四ッ谷は、やはり地名のことなんですか?

そうです。鶴屋南北の書いた戯曲「四谷怪談」は、現在も地名が残る左門町が舞台で、赤穂浪士の食い詰め浪人田宮伊右衛門が自らの出世のために悪行の限りを尽くし、その犠牲となった妻の岩が亡霊となって復讐するという筋です。その成立については幾つか研究…

いま、授業では「藤原京が作られた経緯」をやっているんでしょうか。なんだかテーマが分からなくなってきてしまいました。

大学の講義は微に入り細に入り、また複雑な経路をたどったりするので、常に全体の流れを頭に入れておかないと分かりにくいかも知れません。シラバスはちゃんと呼んでいますか。テーマと15回の授業計画が出ていますので、それを念頭に置いておいてください。…